2008年3月16日日曜日

映画『この道は母へとつづく』

2005年 監督:アンドレイ・クラフチューク
at ギンレイホール


この道は母へとつづく

孤児院の6歳の少年が母親を探しに孤児院を抜け出す。
母を訪ねてうんたらなんだけど、これはハリウッド映画じゃなくてロシア映画。
こまっしゃくれたガキがそれっぽい演技して展開する大仰な感動もの、なんかにはならない。

ロシア映画面白いなぁ。
しょぼくれたおっさんの哀愁が最高に面白い。
気の弱くなった泉谷しげるみたいな孤児院長とか、冴えないくせに以外と強かったマダムの手下のグリーシャとか。
おっさんたちがしょぼくれているのに対して、子供や若者は善も悪も飲み込んで行動に迷いがない。
事の良し悪しは置いておくにしても。
ロシア映画っていうのは声高には主張しないけどどれも社会背景に哀愁と慈愛が漂う人間賛歌だな。

映画『パンズ・ラビリンス』

2006年 監督:ギレルモ・デル・トロ
at ギンレイホール




最近『ライラの冒険』の映画予告をよくCMで見るからそれとこの映画を混同していたんだけど、もう全然違うじゃん。
これを冒険ファンタジーだと思って見に行ったら家族連れの親父は子供に泣いて謝り、カップルの男は彼女(彼女にもよる)に跪いて謝るでしょう。
舞台は1944年のスペイン。スペイン内戦終結後もフランコに反発するゲリラの闘争は続いていた。
少女オフェリアは内戦で父を失っている。
母は「一人じゃ寂しいのよ。大人になったら分かるわ」と再婚。
再婚相手は軍人ヴィダル大尉。
母と娘はヴィダルがいる山奥の駐屯地に向かっていた。
という状況。
冒険ファンタジーが始まるような状況じゃない。
人がぼろぼろ死んでる殺し合いの戦時中だよ。
現実世界が過酷だったら冒険ファンタジーがただの現実逃避になっちゃうし。
と、そこは最後まで見ると悲しいくらいの救いになるのだけど。

ヴィダルのいる駐屯地まで行く道すがら、最初のファンタジー出現。
それはナナフシのような30cmくらいのくそでかい虫!
特大の羽音を立ててこっちに向かってきて、目の前でホバリングした時には鳥肌たった。
次のファンタジーは、ゲリラの疑いをかけた善良な農民をいたぶる義父ヴィダル。
凶器がなんだか暗くてよく見えなかったけど、何かとんがったもので若い農夫の顔をつかんで上から顔面にぐさぐさ振り下ろす。
しつこいくらいにぐさぐさ刺した後に側で震えるじいさん農夫を躊躇いなく射殺。
倒れこんで痙攣していた顔を刺された若い農夫もついでに射殺。
やばいです。
これが新しいパパ。
次のファンタジーは冒頭の巨大ナナフシの妖精変化。
妖精さん。ファンタジー。のはずが・・・
手のひらサイズでかわいいものの体はすっぽんぽんの男で顔は怪物そのもの。グロい。
後になると色違いの妖精さんも出現。全身青とか。グロい。
妖精さんに導かれて、迷宮の番人パンに出会う。
パン=牧羊神。
獣の脚と羊の角を持つ神。かっこいいのかキモいのか怖いのかよくわからない造形。
オフィリアはパンからある事実を告げられる。
さて、自分が魔法の国の王女の生まれ変わりだと知ったらどうする?
魔法の国に帰るために三つの試練をクリアしなければいけないと言われたらどうする?
それは今生きている現実世界の実情による。
こんな世界よりましだわ、と考えたのかどうかは知らないが、オフィリアは大好きなファンタジーの世界に引き込まれて試練を受けることにする。

映画はファンタジーの世界と現実世界が交互に進行する。
残虐非道な義父ヴィダルを中心に現実世界は過酷。
一方ファンタジー世界としてオフィリアが受ける試練はというと、これまた過酷。
つーか何もできない無力な現実世界から抜け出すための手段が現実よりも過酷って・・・
第一の試練のコブシ大のだんご虫とかぬめぬめねばねば世界はまだいいとしても第二の試練のあの怪物は一体何だ?
今までこんなにグロテスクで恐ろしい造形をした怪物を見たことがない。
僕だったらもう見た瞬間近づくこともできずに逃げ出すはず。
ぐはー、妖精さんの首がーー。文字通り”食いちぎられてる”~。

緻密なCGでいろんな怪物が出てくるんだけど、ファンタジーによくあるかわいい造形の生物は一切出てこない。
かわいいどころか皆グロい、怖い、気持ち悪い。
でもオフィーリアはあんまり怖がらないんだよね。
可愛くない妖精や不気味なパンや試練に登場する怪物等々恐れ知らず。
それもこれもオフィーリアの創造が生み出した妖精や怪物だからか。
巨大ナナフシは虫嫌いじゃなければいいのかもしれないけど。

この映画で面白いのはいろいろ視点の変更を示唆する言葉やシーンを挿入するところ。
例えばパンの扱い。
見ている方はパンの言葉になんの疑いも持っていないところで「パンの言葉は信用するな」という言い伝えがぽっと出てくる。
そうなるとパンの不気味な造形といい言動といいなんだか全てが怪しくなってくる。
そもそもパンってそんなにいい神じゃなかったよな。
好色でpanicの語源でもあるし。
信用するなの意味は最後に明かされるんだけど分かるまではどきどき。
最後で面白いのはパンと話をするオフィーリアを第三者がオフィーリアが何もないところに一人で話しかけている姿として捉えるシーンがあること。
今までのファンタジーシーンは全てオフィーリアしか見ていない。
だからパンも妖精も全てオフィーリアにしか見えないようだが、最後の方のこのシーンまでは明確に意識することはない。
それがここにきて明示的に表現されること、目撃した第三者があまりに現実過酷世界の代表(中心)のような人物であり撮り方も状況も冷徹すぎることから、当然のようにわき起こるある疑問にはっとする。
このファンタジー世界は"オフィーリアにしか見えない世界として存在"しているんじゃなくて、"オフィーリアのただの幻想世界"なのではないか、ということ。
ラストのあの展開に持っていく直前に、観客が「ある」と勝手に信じていた世界にもやをかける。というか現実世界にぐっと引き戻すと言ったらいいか。
面白いねぇ。現実ベースで考えるとラストは悲しいけど。
でもラストのファンタジーは少しもグロテスクじゃないから救いだな。パンもちっこく見えて可愛らしいし。

2008年3月1日土曜日

映画『エンジェル』

2007年 監督:フランソワ・オゾン
at ギンレイホール


エンジェル

田舎町の食料品店の二階で毎日空想に夢を膨らます少女がいた。
その少女エンジェルは出版社に送った原稿が認められて処女作を出版。
一躍流行作家となりセレブの仲間入りを果たす。
小さい頃から住むことを夢見ていた大豪邸「パラダイス」を購入し、売れない画家だが色男のエスメも手に入れる。
しかし独善的で空想と嘘で塗り固めた彼女の人生は・・・

貧しいめの庶民だったエンジェルは一躍セレブに。
そんなエンジェルが不幸のどん底の中で、過去にお嬢様だったが今は家が凋落してしまった女性と対面するシーンがある。
落ちぶれたとはいえ真のお嬢様。質素ななりから滲み出す上品さ。
一方対面するエンジェルはというと疲れ果てた白い顔がまるで幽霊のよう。
それまで豪華に着こなしていたドレスもごてごて派手なだけで趣味が悪く、中身がうずもれて貧相になっている。
このシーンにはエンジェルに訪れた不幸が痛烈に凝縮される。
人の言葉には一切耳を貸さない、嘘偽りは当たり前、常識なんて気にしない、自分の夢と理想だけを一心に見つめて才能と嘘で現実に変えていくエンジェル。
そんなエンジェルが現実に徹底的に打ちのめされる瞬間。
エンジェル自身が打ちのめされたと感じているんじゃなくて飽くまで観客が元お嬢様との対比で打ちのめされているエンジェルを見る瞬間。
だってエンジェルは死ぬまで空想と現実をリンクさせながら物語風に生きていく滑稽な存在なのだから。
だからこそ愛すべき存在。
この対面シーンにくるまで、往年のハリウッド映画のような合成使ったりエンジェルの成功も駆け足だったりとどこかふわふわした紙芝居風のものがあっただけに一層悲劇に見える。
映画に付加する現実味の量とタイミングが絶妙で楽しい。

映画『ある愛の風景』

2004年 監督:スザンネ・ビア
at ギンレイホール


ある愛の風景 スペシャル・エディション

優秀な父親、美人の妻、かわいい娘二人。幸せな家族。
しかし、エリート兵士の父親ミカエルはアフガニスタンへ派遣され、乗っていたヘリが撃墜されて死亡。
傷心の家族を支えたのはミカエルの弟ヤニックだった。
ヤニックは兄と違ってエリートどころか職にも就かずに仕舞いには刑務所に服役する厄介者。
ミカエルの妻サラとヤニックはお互いいい感情を持っていなかった。
ミカエルの死をきっかけに接点ができてから、今まで知らなかったお互いの人柄を知っていく。
そんなとき、死んだと思われていたミカエルが帰国する。
しかしミカエルは過酷な捕虜生活の間に起きたある事件によって別人のように不安定な人間になっていた。
全ては愛のために。そのシンプルな深い感情が悲しみ苦しみを生み出し交錯していく。

手持ちカメラでドキュメンタリータッチ。
たまにどっしり構えて見たい時に手持ちでうっとおしく思うところもあったけど、まあとにかく心の機微を捉える繊細さが抜群で面白いからいいや。
デンマーク映画。監督は女性監督のスザンネ・ビア。