2009年 監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
at ギンレイホール
あまり知らないのだけどオリヴェイラの作品ってラストはいつもこんな感じなのかな。
ちょっとした不自然が静寂の中異常なほど不安定に存在を主張して、眩暈とともに吸い込まれていくと弾かれるようにぷつっと終わってしまう。
こんなに強烈で印象的なラストはオリヴェイラの映画でしか見たこと無い。
オリヴェイラで過去に見たのはミシェル・ピコリ目当てにたまたま見た『家路』の1作のみだけど、『家路』もラストにびびった記憶がある。
ストーリーは、列車の中から始まる。
なにやら彼女とやむを得ず悲劇的に別れてしまったらしい男が、苦悩を吐き出すように彼女との間に起こった事を隣の席の見知らぬ婦人に語るという形式で進んでいく。
全体的な印象として、無駄がないな、と思う。
カメラは無駄にがちゃがちゃ動かないし、フレーム内に映るものはシンプルで無駄がない。
無駄が無い無駄が無いなんて言っていると、堅苦しいとか殺風景とか思うかもしれないが、情報量を切り詰めた映像はちらっと背後に映るだけの小道具や暗喩に目を光らせる必要も無いからそれだけ見やすいということだし、シンプルということは制限の無い自由な余白に溢れているということでもある。
(そもそも巷に溢れる最近の映画は阿呆みたいに情報を詰めすぎなんだ)
情報量を切り詰めちゃったら普通なら何がなんだかわからなくなっちゃうところだけど、シーンの羅列が不安定な動的要素をはらみながら破綻すること無く映画の面白さ怖さを見せてくれるから凄い。
話を聞く役の列車の隣席のおばさんは盲目という設定なのかと思った。
話をする主人公の男の顔ではなく、斜め前の中空を焦点の合わない目で見つめていることが多いから。
そこで気付くのだけど、このおばさんと主人公の男に限らず、視線と視線ががっちり交錯する瞬間がほとんどない。
はっきり映らないかもしくは不自然に微妙にずれる。
「不安定な」という印象はこの視線のずれによるのかもしれない。
例えば狭い借り部屋への来客シーンで、客用に用意した椅子は何故かベッドに座る主人公に対してそっぽを向いた位置に置かれる。
明らかに不自然なのに客はそのまま座るので、二人が正面きって相対することが無いのだが、会話は何故か自然に成立している。
はっきり映らないという点では、2階の窓から向かいの建物の窓への視線、切り替えしてその逆。
下から見上げる窓、窓から見下ろす道路。
上下左右の自由な拡がりでありながら極めて曖昧な距離感を持った空間を挟んで、人と人は互いに気付いて見つめあったり(見つめ合っているように見えたり)気付かずにそっぽを向いて別の「何か」を見ていたり。
登場人物達は一体何を見ていたのだろう。
カメラが一人称の視点になれば、その人物の見ているものが分かるが、代わりに他の人物の視線はどこを見ているか分からない。
これはカメラが同時に二人の視線を一つのショットで映す事が不可能だからしょうがない。
しかも「一人称の視点になれば」と言っても、それが一人称の視点とはっきり証明することだって本来できないじゃないか。
ショットの切り返しによって男が女を見た、女が男を見た、と思っているだけで実は二人は全然別のものを見ていた可能性だってある。
となるとカメラが映しているものって一体なんなんだろう。
カメラはなんでも映せるようでいて、実際は何も映せない。
観客は映画を見た、見ている気になっているが実際は何も見ていない。
映画固有の映画言語みたいなもので、シンプルなショットの連続だけでも分かった気になる。
明らかに不自然なはずなのに分かった気になる。
微妙なずれや不自然さは、普通は気にしないこの何も見えていない部分、それはどこまでも深そうな闇のような触れてはいけない部分に抵触していて、恐ろしいやら面白いやら。
全く何言っているのだか分からなくなってきた。
美しいブロンド少女が片目をその綺麗なブロンドの髪で覆い隠して、片目だけでじっと見つめる視線がエロい。
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