2017年1月3日火曜日

映画『エル・スール』

1982年 監督:ヴィクトル・エリセ
製作国:スペイン/フランス
BS2 録画




冒頭、ただの黒背景だと思っていたら段々何かが浮かび上がってきて、部屋の窓から朝陽が差し込んできて明るくなっているのだと気づく。
ベッドに少女が寝ており、犬の鳴き声や女が誰かの名前を呼ぶ声等々が聞こえてくる。
なんか素晴らしい始まり方だな。
黒背景っていう思い込みが覆された多少の動揺みたいのものを引きずりながら、光はゆっくりと部屋の肌触りを浮かび上がらせていき、映像や音で物語の断片が慎ましく提示され、これから始まる物語への期待が膨らむ。

で、その物語だけど、そんなに大したお話ではないと思う。
冒頭でほぼ結末に触れているし。
ベッドに寝ていた少女エストレーリャが主人公で、15歳のエストレーリャが過去をモノローグとともに語るその過去編が大部分を占める。
過去編でのエストレーリャは8歳。
母親より父アグスティンが大好きなエストレーリャ。
父アグスティンの出身は南だが、父親と政治的に対立してからは一度も故郷に帰っていない。
内戦の敗者として投獄もされていたらしい。
そして父アグスティンにはかつて愛した女性がいた。
ただ大好きだった父親のことを何も知らないことに気づいていくエストレーリャ。
アグスティンはかつての恋人への思いを捨てきれずに苦悩し、偶然その父親の秘密を知ったエストレーリャはひっそりと胸にしまって秘密を共有する。
そしてエストレーリャは15歳に成長し。。

よくありそうなお話を、光と影と音、そして時間や空間の切り取り方でこんなに豊かに表現できるもんなんだな。

いくつか気に入ったシーンを挙げていく。

15歳から過去に飛ぶシーン。
振り子を見つめて涙を流すエストレーリャのアップショットから、ベッドに横たわるお腹の大きい母親と、そのお腹の上に振り子をかざして女の子だと当てるアグスティンのシーンに切り替わって過去になる。
エストレーリャの持つ振り子とアグスティンが持つ振り子が現在と過去でつながっているのだけど、普通の監督なら過去のアグスティンもエストレーリャと全く同じ構図のアップショットで撮って嫌味たらしく強調しそうだななんて思った。
まあそれは置いておいて、この過去に移ったときの部屋はエストレーリャがいた部屋と同じなのね。
しかもカメラ位置は冒頭の現在のシーンで何度も使われている位置と全く同じ。
一つの部屋での出来事で激しい動きがあるわけでもないのになんて濃密なんだろう。
同じカメラ位置のシーンだけでも1回目は前述の冒頭の朝陽が次第に差し込む動きがあって、2回目のシーンでは起き上がった少女が枕下の振り子を見つけて握りしめる動きのあと、さらに光が差し込んで壁紙が浮かび上がってくる。
そして3回目は時間を超えて過去のシーンになっている。
ずっと同じカメラ位置ではなくて、途中でアップショット等はさみながらであり、現在と過去のつなぎ目も同じカメラ位置でそのまま移行するほうが印象的な気もするがそこは敢えて外している。
こういうところに監督の慎ましさを感じる。というかすごい計算しているんだろうな。
この部屋から脱するのも、画面が暗くフェードアウトしきる前に汽笛が鳴って次の列車のシーンにつながるっていう流麗さ。
後、ラスト近くで過去から現在に戻るときは、過去に飛ぶ直前のシーンからの完全な続きになっていて、長く追体験してきた過去シーンが一瞬にして濃縮する。
振り子を見つめる現在のエストレーリャの時間に分断はないが、観客は過去から戻った後のエストレーリャに時間の重みを見る。
現在から始まって過去に行って現在に戻る、って映画でも漫画でもよくありそうな構成だけど、なんだろうね感動的なのは、単純にその分断点が悲しく涙が美しいシーンだからかな。

エストレーリャの初聖体拝受を祝うシーン。
ベールがかかった椅子のアップから陽気な音楽「エン・エル・ムント」とともにカメラが引いていくと長机の両側に座る人がこちらを楽しそうに見ている姿が次々に現れる。
扇子で仰いでいたりタバコの煙をくゆらせたり。
引くカメラが机が端を捉えるとダンスを踊るエストレーリャとアグスティンが優しくフレームインしてくる。
長机の人たちは二人のダンスを見ていたのね。
ひとしきり二人を映し終えるとカメラはベールがかかった椅子へと再び戻っていく。
これがワンカット。
言葉で説明してもつまらないな。
この初聖体拝受の日は父親大好きエストレーリャが幸せのピークだった日。
教会でアグスティンが暗闇から悪魔のようにヌッと現れる不気味さも意に介さずに父親が来てくれた喜びに溢れるエストレーリャの笑顔が泣きそうなくらいまぶしい。
そこからこの幸せなダンスシーンにつながる。
そしてこのシーンはラストにもつながるのね。

カフェでアグスティンが手紙を書くシーン。
店の中と外、窓ガラスを隔てたエストレーリャとアグスティン。
二人の表情はもとより、中と外の切り替わりと視線の交錯のリズムみたいなものが心地よくて物悲しい。

家出(?)したアグスティン。
ステーションホテルの一室で夜から朝、そして汽車が発車するまでの時間の流れがいい。
汽車は映さず音と窓辺の光だけで表現されている。
ヴィクトル・エリセのインタビューによると、あのホテルはセットじゃなくて監督が撮影時に実際に泊まっていた部屋らしい。

夜に庭のブランコにのるエストレーリャと、屋根裏の窓から庭をのぞくアグスティン。
じっと見つめ合ったあとに窓からそっと離れるアグスティン。
あんなに大好きだったアグスティンとのこの微妙な距離感に息が詰まる。

エストレーリャのいたずらめいた家族への抗議に対して、沈黙で答えるアグスティン。
杖の音が継続的に優しく、そしていらだたしく響き渡る。
それにしても父の沈黙から私より悩みの深いことを知らせているのだと悟るエストレーリャって相当賢いよね。8歳でしょ。
もう泣かないで、って思う。

冬の真っ直ぐな並木道を白い自転車に乗って走っていくエストレーリャ。
赤い自転車で戻ってきたときは15歳に。
子犬も大きくなり。
15歳のシーンでは道に落ち葉が敷き詰められているし、実際の撮影時期も1年位経過しているのかな。
意図的にやっているのかもしれないが。
このシーンもそうだけど、全般的に映画の中で流れる時間の感覚がすごくいいんだよな。

珍しくエストレーリャを誘ってグランドホテルのレストランでランチを取るアグスティン。
ここの二人の会話は今までの集大成になっていて目が離せない。
父親は大好きだけど子供の頃のように無邪気に表現はしないエストレーリャとアグスティンの間にあるもやもやした距離。
イレーネ・リオスという名前に心中で激しく動揺するアグスティン。
空間的には入り口入って左側はすぐカーテンの引かれた敷居戸があって、その向こう側の広間では結婚式のパーティが行われている。
入り口入って右側がレストランで、テーブルがいくつか配置されていて、アグスティン達は一番奥の端のテーブル席に付いている。
入り口付近には初老のボーイが待機している。
二人のバストショットで会話をしながらも時折やってくるボーイの靴音が空間の広がりを伝えてくる。
で、このボーイさん、出入りする人物を出迎えたり呼ばれたりする以外は基本椅子に座っている模様。
しかもタバコまでくゆらせて足まで組んでいる。
スペインだからか時代だからか。
会話中にパーティ会場から聞こえてくる「エン・エル・ムント」。
幸せのピークだった初聖体拝受の時に二人で踊った曲。
過去を懐かしむアグスティンを恐れるように「行くわ」と席を立つエストレーリャ。
レストランの空間を歩いて敷居戸に近づき、カーテンの端をめくって広間を覗く、と同時にカメラが上に上がって上部のガラス窓から俯瞰でパーティ会場を映し出す。
上からかよ、って思ったのもつかの間、次のカットでは覗き込むエストレーリャの表情をパーティ会場側から映し出す。
この表情が過去と現在に複雑に思いを秘めているようで泣ける。
あまり分析はしたくないけど、エストレーリャは覗いているしカメラも伸び上がるように上から覗いているのでパーティ会場側には入れないように思わせながらも次のカットではカメラはあっさりパーティ会場側に回り込んでいて、覗き込むエストレーリャのあの表情を正面から映し出すもんだからものすごく劇的なんだよな。
(これ書くために何度か見直していたらなんか初見の印象と違って何も感じなくなってきた。同じシーンを巻き戻して何度も見るってやっちゃいけない行為なんだな。。)

長くなりそうだからいくつかのシーンを省いて書いたけどそれでも長くなっちゃった。
なんか本当は当初この後さらに90分の後半部分を撮る予定だったらしい。
後半はエストレリャの南での旅で、父の過去を追い、自己のアイデンティティを確立する旅。
ロードムービー風であれば見てみたかったなぁ。

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