2004年10月31日日曜日

HDD付きDVDレコーダー

ここ二週間、HDD付きDVDレコーダーの残量が8時間前後で揺らいでいる。

BS日本のうたの録画予約をし忘れていて、気づいたら始まって3分くらい経ってしまった。
慌てて録画ボタン押して録画。
寿美さんがエレキなしで「女人高野」を歌う。おお、また歌い方が変わった。いつもより力強く。
「蘇州夜曲」なんていう寿美さんぴったりの曲まで歌ってくれて、堪能する。
今回のスペシャルコンサートはにしきのあきらと伍代夏子で、にしきのあきらのギャグすれすれのあまりに激しいステップに魅了される。

さて、録画したやつを再生して寿美さんをまた聴こうかと思ったら、タイトルリストの表示で固まってしまった。
正常に録画できていなかったのだろう。しょうがない、来週の再放送で録画しなおして、今回のは削除しよう。
強制リセットして、再び起動し、おかしくなったタイトルを削除しようとしたら削除できない。
「このディスクは編集できません」とか出る。こ、これは。6月にも出たエラーメッセージではないか。
案の定他の録画タイトルも全て編集不可で再生とDVDへのダビングしか出来なくなっている。

僕は滅多に独り言なんか言わないのだけど「ふざけんな」って何度もつぶやいてしまう。

演歌歌謡曲番組:HDDからDVD-RW、DVD-RWをPCに取り込み、編集、DVD-Rに焼く。
映画:30本未満、ひたすら見る。残したいもの、HDDからDVD-Rへ。
遅くても半月で作業完了予定。
バックアップ完了後にHDDを初期化。

映画『禁断の惑星』

1956年 監督:フレッド・マクロード・ウィルコックス
BS2 録画


禁断の惑星

宇宙をバックに電子音とともに「FORBIDDEN PLANET」というタイトルが出たときにはどきどきする。
ファミコンの音楽のような電子音がいかす。
僕はとりあえずレイ・ハリーハウゼンが手がけた映画のように、怪物とかがわんさか出てくれば満足だったのだけど、この映画は結構真面目で、円盤型の宇宙船が惑星に着陸するとき「人口重力OFF」とか、惑星が爆発するから1億6千万キロ離れろとか言ったりするし、ストーリーも人間の肉体と精神の因果を扱った微妙に高尚なお話となっていて、ぽけーっとしてしまった。
はちゃめちゃと言えばはちゃめちゃかもしれないが、いくらか論理的にまとまったSF作品。

恐ろしい映画でもある。
光速から普通の速度に落とすとき、人間は特別な装置の中で守られていなければいけないらしいが、そんな大事な装置に乗組員全員が正しく入っているかなど確認すらしない。
艦長は減速するから各自位置に着け、くらいしか言わないし。装置に入り損ねた奴はどうなっちゃうんだろう。
惑星に着陸すると、砂煙を上げて猛スピードでなにかが接近してくる。ロビー・ザロボットの衝撃的登場シーン。
この有名なロボットの造型が凄い。頭についている半円のガラス窓の中に三つの球がくるくる回転しているし、耳あたりから突き出たレーダーみたいなわっかもくるくる回っているし、だいたい足が四つの球の連鎖で成り立っているっていう不安定感が恐ろしい。
怪物は部屋に遺体が散乱するほど暴れっぷりが残酷だし。
そしてなにより恐ろしいのはアルタのあまりに短いミニスカートなのであった。
唯一の女性アルタのミニスカートが全ての元凶だよ。まったく。

2004年10月30日土曜日

映画『サン・ピエールの生命(いのち)』

1999年 監督:パトリス・ルコント
BS2 録画


サン・ピエールの生命 (BOOK PLUS)

銃殺か?ギロチンか?といったら銃殺の方を選ぶ。
首が体から分離するなんて考えただけで恐ろしい。

カメラがよく動くな。
ルコントってこんなにチープだったっけ?と思っていたけど、ズームアップの多用や短いカット割り、手持ちカメラのせわしなさ等々わざとやっているみたい。
そう思うとなんか面白くなってきて、字幕なんかろくに読めやしない。

出演はダニエル・オートゥイユにジュリエット・ビノシュ。
映画が終わって配役見て初めて知ったエミール・クストリッツァ。

(追記)翌日イラクの香田さん殺害のニュースを知る。

2004年10月26日火曜日

映画『サイレンス』

1998年 監督:モフセン・マフマルバフ
BS2 録画


金髪のアメリカ人の子供のようなホルシードが主人公。
この少年は目が見えない。母と二人暮し。貧しい。
大家が家賃を払えないなら追い出すと言ってきている。
金が要る。
金を得るために盲目の少年が活躍する、という展開にはならない。
普通にいつもどおり、バスで勤め先の楽器工房に行って調律の仕事をこなす少年。むしろ状況は悪化する。
大まかなストーリーはそんな感じ。

ストーリーはさっぱし分からないんだけどかなり面白い。
大家が家賃の催促で叩く嫌なドアの音が少年にはベートーベンの「運命」のフレーズに聞こえる。
「運命」のリズムはいたるところで喚起され、仕事場の少女からやがて見知らぬ人々まで波及し、少年を円の中心として最後には一大交響曲を構成する。
と書くといくらか語弊があるな。
まず、「運命」のダダダダーンのリズムは作品冒頭を忘れているとかなり唐突な違和感と共に出現する。
少年がこのリズムを大家がドアを叩く音だと認識していると知るのはまだ先の話。イメージはすぐにはつながらない。
少年は「運命」のリズム、さらには"いい音楽"を求めて盲目の危なっかしさを常に秘めながら街をさまよう。仕事よりも、金よりも、家を追い出されることよりも重要な。
少年に思いを寄せている"らしき"少女は、少年の頭にこびりついているリズムを奏でられない。
しかし自分をクビにしようとしている親方がガラス戸を叩く音はまさしくそのリズムであったりする。
少年にとって嫌な音であるはずのリズムが"いい音楽"であるという矛盾があり、かつその矛盾が徹底されて嫌な人物のみが奏でる音という意味づけが出来るとしたらなんて簡単なことだろうか。
しかし事態はもっと複雑で、「少女が奏でられない」と言いつつも実は最後にタンバリンで親方のリズムとシンクロして奏でられていたともとれなくはない。
嫌な人物のみどころか見知らぬ金物打ちの少年や見知らぬ流浪の芸人も少年に教わる教わらないを問わずに奏でるし。
そもそも少年が人に伝えるときに口で言ってみせる「ババババーン」というリズムの音程は「運命」からは遠い音程であり、少年が「運命」を聞いたことがあるのかないのかもはっきり示されない。
知っているのかそれとも少年の想像力が生み出した音楽がたまたま似ていたのか、時折挿入される「運命」の曲や少年が民族楽器で自ら奏でるリズムと音程のみが「運命」を連想させる。
とにかく「運命」のダダダダーンのリズムが様々なシチュエーションと様々なイメージでひとところに落ち着くことなく現れる。(この映画はなんでもかんでもひとつに定着することは徹底的に嫌われる)
リズムが人々に意識無意識関係なく波及しているのを見ていると、当然最後にオーケストラによるベートーベンの交響曲第5番が高らかに流れる瞬間があるはずと思って期待するのだが、確かにラストで期待するような場面があるけれど爆発的な感動シーンではない。
その場面はストーリー上のある転換点ではありながら、ストーリーが大いに盛り上がったところで出現するわけではないから。
そして第五番は結局最後までオーケストラで奏でられる事はなく、全て民族楽器で演奏される。
ラストでオーケストラの演奏が大々的に流れたら安直に感動してしまったかもしれない。それじゃあ作品の質が落ちる。
マフマルバフは安易な感動シーンなど作りはしない。ダダダダーンのワンフレーズだけを作品中に散りばめて、その後に続くフレーズを一切排し、欲求不満を溜めさせた上でラストに一気に開放する、というようなこともしてないしな。
それなのにラストが感動的なのは後で述べる。

この映画はあまりに説明的でないため、誰かにストーリーや設定を逐一説明してもらいたいようでいて、誰の説明も必要なくもある。
人それぞれに様々に解釈できるから自分が解釈したことでいいじゃないかということじゃなくて、そもそも意味づけや解釈の整合性を保つ意味があまりない。
少年が母に連れられ河にかかった橋をゆっくりと渡った時から盲目の少年を夢幻に廻る円の中心に配した、氾濫する相克のイメージをひたすら冷静に全身で受け止めて温めていけばいい。

少年が働く楽器工房の外壁には、大小様々な木製の車輪が立てかけてある。
ひっそりと動きを止めて佇んでいる車輪が背景としてただ自然にそこに存在しているのだけど、なぜここに?の違和感を感じ出したら円のイメージに囚われてしまう。
思い出せば一列に並んだ女性達が押並べて顔の横にかざしていたパンも、カゴに積まれたざくろやりんごもさくらんぼも携帯ラジオのスピーカー部分も少女のあごのラインも少年の柔らかい頭髪の形も皆丸かった。
流浪の遊牧民が奏でる音楽を追いかけ、仕事場に向かうバスを途中下車する少年。芸人は馬車で移動する。
歩いて追いかける盲目で無力な少年に話しかけたのは人力車の少年。馬車を人力車で追いかける。
馬車のこじんまりした黒い車輪に比して、圧倒的にでかい(かつ軸のゆがんだ)人力車の木製の車輪。
大きさで勝っても馬力で劣る。
馬車と人力車が交互に映されていたのが次第に人力車ばかり映されるようになり、最後に馬車はどこともなくいなくなる。
だってどちらかというと無骨な人力車の車輪のほうが魅力的だから。だいいち壁に立てかけて静止していた車輪が今ここに見事に回っているのだから映すしかないでしょう。
円形や丸みが優位な世界では四角形や角ばったものは異質になる。
少女の持っていた長方形の手鏡は、たとえそこに鮮やかなさくらんぼが映し出されようが、指でなぞってまあるい顔を書こうが、所詮媒体が長方形なのだから少年の手で必然的に割られてしまう。
長方形の映画のスクリーンに対するジレンマのように。
もうひとつ、頭髪に巻くスカーフは頭の形を見事に丸く見せてはいるが、少年に似ても似つかない母親の顔は見事に角ばっている。
けりをつけなければ。
契機は期限が切れて家財道具とともに家を母親が追い出されたときにやってくる。
家を追い出されないために少年は頑張っていたはずだが、悲しくもお金を用意できなかった。
川沿いに建つ少年の家から小船が出て、そこには追い出された母親が乗っている。
この時少年は家におらず、対岸でその姿を眺めている。(少年には見えないが)
荷物とともに小船に揺られる角ばった母親。荷物というのがなぜか長方形の大きな鏡。陽光をあたりに反射して存在感抜群。
少年は母親の呼びかけにも答えずにその場を立ち去る。
盲目の少年が「運命」のフレーズを織り交ぜた馬の走るリズムに乗り、川辺を水しぶきを上げて馬のように走って。
お金も生活も、社会も肉親も断ち切って、聴覚と想像力を研ぎ澄ませた少年を円心に危うい夢幻の世界が成就する瞬間。
この瞬間にあの第五番が民族楽器によって演奏されるのだ。
かつ、少年の指揮と、流れる音楽と、画面に映る演奏する金物職人の3つは関係性で互いにつながりあっているのだが、てんでばらばらだったりする。
完全にフィットしないずらしの摩擦がうねり狂う渦になる。劇的に動的な瞬間。

危うい感覚やイメージというのも溢れている。
なにしろ少女の唇とあごのアップの多用は本当に監督はやばい人なのだと思った。
大人の女性と少女の狭間にある生々しく妖しい官能。そこまでどアップにするか。偏執的に追う監督。
そもそも盲目の少年が街をさまようこと自体が既に危ういんだけどな。
少女が発車しそうなバスの前を二度も横切ったり、親方に大事な耳を無造作に掴まれて引っ張られたり、割れたガラスを掴んだり、雨の中川辺を楽器を抱えて少年が走るシーンが意味ありげに(意味は特にないんだろうが)スローモーションだったり。
全て大事にはいたらないが、危ういイメージは付きまとう。他のイメージと相互に戯れながら増幅されて。
円形や丸みも他のイメージと合わさると危うい魅力を放つ。
少女の耳にかけられたさくらんぼ。少年が楽器の調律のためにかき鳴らすリズムに合わせてあごを振って踊る少女。丸いさくらんぼが揺れる。少女の官能の危うさと揺れるさくらんぼの艶のある円形の危うさ。
パンを買った少年の眼前に突き出された円形の平べったいパン。女性は少年が盲目のために気づいていないと知って、かざしたパンをそのまま優しく少年の丸い顔に付ける。
小さな驚きとともに気づいた少年は片手でパンを掴みながらもう一方の手でお金を渡し、そのまま丸いパンをひとかじりする。
この一連の動作の流れる美しさと、喰われることで不意に円形の均衡が崩れる危ういイメージ。しかしパンを売った女性の顔の横には次の円形のパンがかざされていて、何事もなかったかのように大きな円の循環で円が復活している面白さ。
名前を知らないが球形を形作る白の混じった赤紫色の花がある。その花弁を一枚ずつむしりとる少女。球形からもがれていく。花弁は少女のそばかすの顔のアップとともに鮮やかに付け爪へと変身する。同時に花弁を数枚もがれても球形をなんとか保っている花が、不完全さの魅力で残酷なまでに生き生きとしてくる。

微妙なずれ。
楽器を奏でる遊牧民は、最初なかなか顔がはっきり映らなかったため、勝手に若い青年だと思っていた。
しかし少女に話しかけられて振り向いた遊牧民は特徴ある顔したおっさんだった。えーっ。
盲目の少年の服が面白い。上は黒いセーターのようなものを着ていてかっこいい。だが背中の下の方には銀の竜の刺繍が!
下はなぜか黒いスパッツ。腰のあたりだけに白いラインが入っている。上と下のバランスからみて、上のもこもこに比して下があまりにぴっちりしているから少し弱弱しい。
上のセーターは脱いだり着たりと頻繁に着替えられる。セーターの下は白いTシャツ。キャラクターがプリントされた薄いシャツが女の子ものの服に見える。
一番面白かった服が人力車の少年が着ていた青いTシャツで、このTシャツは肩まで大きく開いた丸首のため、必死に走る少年の右肩から今にもずり落ちそうになっている。
薄い髪してうつろな表情で車を引く人力車の少年。いやらしいダンサーみたいだ。
盲目の少年は目が見えない分、蜂の羽音を聞き分けるほどに聴覚が敏感らしい。少年に流れ込む音は聞こえるものだけじゃなくて膨らんだイメージに溢れている。
音に敏感、のはずなのに。楽器の調律の腕は悪いらしい。ガラス窓に密閉された四角い空間の中で設定ははかなく揺れ動くのか。少女の方が「音が合ってないわ」と敏感だし。
固定的なイメージは避けられる。また、勝手に作ったイメージははかなく崩され、そして思いもしないイメージが突然付与される。
"ずれ"や微妙さによってもたらされるイメージは常に流動的重層的で、溢れるイメージと格闘している様。
少女は盲目の少年をひたすら見つめる。少年には見えないのに耳にさくらんぼをかけて着飾ってみたり。
少年が迷子になったとき、少女は少年と同じく目をつむって視界を閉ざす事で少年とシンクロし、見事に見つけることが出来た。
なのに少年が大家がドアを叩く音は「ババババーン」だと言っているのに少女は「ババババ?」と可愛らしく返したりする。
「ババババーン」だと言ってるじゃないか!あほか!わざと間違ってるの?
円いタンバリンで何度叩いて見ても「違う」とダメだしされる。
とにかく少年とシンクロできない。
着飾って一心に少年を見つめてみても、少年は少女を見ることが出来ない。
大人になりかけの少女が少年を見つめることで見つめられることを想像する。つまり着飾った自分を一心に見つめているだけなのかもしれない。
年上の少女にとって盲目の少年は恋愛感情の対象ではなくて自分を反射して映し出す鏡か、可愛い弟か。

家からバスで通う親方の家だが、親方の家からたいして歩いたようには思えないのに少年は自宅の対岸に歩きつく。
そして少年がそこから馬のように飛び跳ねて駆け出すと、一気に鍋打ちの少年のところまでたどり着く。
鍋打ちの少年はバスを途中下車したところにいたのではなかったか。
自宅、鍋打ちの少年がいる所、親方の家の3箇所はバスで移動しなければならないほど遠いはずではないのか。
水辺の背景で水しぶきを上げて走っていた少年の幻想的なスローモーションから、瞬間移動とも言える空間の移動が行われるとスローモーションが解かれる。
移動後の背景は生活空間である鍋打ちの少年のいる背景で、日常の空間を先の空間の続きのように少年が馬のように飛び跳ねて画面を横切っていく。
違和感のともなった感動的な遷移。
少年が出現すれば日常空間も次第に幻想空間に変貌する。
着ていた黒いセーターがいきなり肩からかかっているだけになっても、少年の指揮を見ているはずの鍋打ち達が全然少年の指揮に合わせていなくても、スポットライトのように光が降り注ぐ地点で少年が立ち止まって両手を挙げたとき、肩からかけていたセーターが落ちて上半身裸になっても、?マークどころかイメージが相殺されては次々に湧き出てくる不思議なラスト。

2004年10月24日日曜日

映画『牧童と貴婦人』

1938年 監督:ヘンリー・C・ポッター
BS2 録画


渋メンことゲイリー・クーパーとおでこ系美人で「ユピィー!!」と叫んだマール・オベロンによる軽快な恋愛コメディ。
邦題の通り牧童と貴婦人のどたばた。

クーパーがコメディ演技をすると、その渋い顔のせいかむっつりやらしい感じがする。
母のエプロンの紐を何度も何度ももうぶちきれそうなくらい意地悪してほどく仕草、というかにやにや顔でいたずらするクーパーのなんとすけべなことか。
しつこすぎるよ。
虫取り用だかなんだかぶら下がっていた粘着テープが腕や服にからまってしまったオベロンが、近くにいた髭剃り中の男のアドバイスで足で踏んで剥がすシーンがある。
ハイヒールでそっと踏みつけるオベロンの、アップで映し出された足が非常に綺麗だった。
ひざ下まで伸びたスカートで露出は高くないんだけど。すらりとして。
というように結構エロい映画。

2004年10月23日土曜日

映画『エンジェル・スノー』

2001年 監督:ハン・ジスン
BS2 録画


エンジェル・スノー

「パパだ」のイ・ソンジェ主演。
この人が出演した作品ってこれ含めて3作しか見てないけど、どれも印象が違うな。
今回はとてつもなく妻思いの優しい男を演じる。
ところで韓国四天王って誰だろうと思って調べてみたらペ・ヨンジュン、チャン・ドンゴン、ウォン・ビン、ソル・ギョングなのね。
(ソル・ギョングしか見たことないな)
イ・ソンジェがなんで入っていないんだろう。

映画は、子供を熱望するがなかなか宿らない若夫婦の苦悩の物語。
さあ、泣こうかと思って見ていたのだけど、結局一度も泣けなかった。
とりあえずイ・ソンジェはよかった。

2004年10月20日水曜日

映画『酔っぱらった馬の時間』

2000年 監督:バフマン・ゴバディ
BS2 録画


酔っぱらった馬の時間

これはちょっと。
本当、なにも書く気が起きない。
というか書きたくない。
あまりに素晴らしくて何日も声を失う。
今まで見てきた映画のほとんどが愚鈍でくだらなく思えてくる。(…は少しいい過ぎか)

イランのバフマン・ゴバディ監督長編第一作。
イランに住むクルド民族の生活を綴った作品で、監督自身もクルド人。
キアロスタミの助監督をやっていたらしい。
「酔っぱらった馬の時間」というタイトルを持つ映画が面白くないはずがないと思って録画していたのだが、作品は期待以上に凄かった。
扱ってる題材が重く、監督のクルド人の現実を伝えようとする思い入れも強いはずだが、ただのプロパガンダどころかどこを見てもつつましく鮮やかな映画の感動に溢れた驚愕の名作。

2004年10月17日日曜日

映画『テヘラン悪ガキ日記』

1998年 監督:カマル・タブリージー
BS2 録画


時に図々しい悪ガキで、時に母親に持てる限りの愛情を向ける健気なガキで、時にゴキブリのような恐れの対象で、時に人見知りのする小動物なガキの物語。
少年更生センターにいる少年メヘディは幼い頃に失くした母親の面影と瓜二つのソーシャルワーカーの女性職員に出会う。
メヘディは父親から母は死んだと聞かされていたがそんなことは理解したくない。
やっぱり母親は生きていて、やっと会えた。
ってことでセンターを脱走して母親に会いに行く。
単なる思い違いだと知らずに。というかあなたの母親じゃねーって言ってんのにメヘディの幻想は消えることはない。
母親と信じて疑わない女性の下へ図々しく押しかけて拒絶され、受け入れられたと思ったら裏切られ・・・

メヘディの父親は交通事故で亡くなったため、両親がいない。
停車中の車に煙草や新聞を売り歩いてなんとか自活はするが、生活云々とは別で母親を欲する気持ちは歯止めがきかない。
母親を探し出せないでいる自分は水をぶっ掛けたくなるほど大っ嫌いだが、母(擬似的)と生活している自分は最高に幸せで大好きだ。
また、メヘディに「母さん」と呼ばれる女性は夫を亡くし一人娘を大事に育てている。
メヘディを養うような余裕もないし、メヘディのような社会からはみ出た人物を受け入れきれないある理由もある。
言葉遣いが悪かろうが、飯を手づかみで食おうが、メヘディにとってはそれが今まで生きてきた中で自然に学んだスタイルなのだが。
ただ母親に愛してもらい、一緒に暮らしたいというメヘディの一途な思いが切ない。
と同時にくそ生意気なガキめ、という憎らしさも潜めた悲しきコメディ。

結構感情が交錯する。
メヘディの危なっかしさを和やかに繋いでくれるのがソーシャルワーカーの女性の愛娘で、この子が非常に可愛らしい。
とにかくこの子の笑顔が母とメヘディとの空隙に流れ込むとほっと安心する。

ビニール手袋という小道具が最後におよぼす作用を普通に想像できるのだが、なぜかやっぱり泣ける。
オープニングの静止ショットの繋ぎとラストの一日の経過シーンは良かったな。

2004年10月16日土曜日

映画『非常線の女』

1933年 監督:小津安二郎
BS2 録画


小津安二郎 DVD-BOX 第四集

お米のような顔した日本美人田中絹代の洋装が恐ろしく似合わない。
しかも田中の役は、昼は堅気でしとやかなタイピスト、夜はダンスホールにくりだす「ずべ公」なので、昼夜で着る服が変わる。
和服は絶対着ないで全部洋装なのだが、本当なんというか次から次に着せちゃいけないものを着せているような。
それでいて背中の開いた白いドレスに身を包んだ田中絹代がぽっちゃりと官能的であったりする。
というのも彼女が不意に動いたときに、ドレスの右肩がずれ落ちて丸みを帯びた肩が露になる瞬間が一度ならず二度もある。
演出なのか偶然なのか、突然現れる肌理の細かそうな美しい素肌となで肩気味のラインの美しさが一気に官能を呼び起こさせたのね。
ドレス(洋)と顔立ち(邦)のアンバランスの違和感の中、ドレス(洋)のいたずらが露にした日本女性の官能(邦)っていうような並置の仕方が面白い。

ヒロインはもう一人いる。水久保澄子。
こちらは終始和服で長屋みたいな家に住んでいる。
弟思いでしとやかで、レコード店で和服で働く。
この人の心持ち首をかしげた状態で相手をじっと見つめる視線は、いじらしさや強さ温かさ等々様々な相貌を秘めて相手の心を貫く。なんという魅力。
特に田中絹代に拳銃を突きつけられた時の、表情をほとんど変えない無言のクールさと視線の動かし方には惚れ惚れする。

映画の内容は、街の与太者グループのボス岡譲二とその女田中絹代がいて、譲二の仲間になりたいと志願してきた三井秀夫がいて、三井秀夫の姉水久保澄子は弟を心配して譲二に弟を仲間から外してくれとお願いしに行き、そんなこんなで澄子の視線の魅力に一発で射抜かれた譲二はこの堅気の女を好きになってしまい、さあ、どうしよう、って話。

2004年10月11日月曜日

映画『スイミング・プール』

2003年 監督:フランソワ・オゾン
at ギンレイホール


スイミング・プール 無修正版

いつまでも若く、貪欲に人生を謳歌したい。という願望。
ラストの謎かけがどうのこうのというよりもリュディヴィーヌ・サニエちゃんがかげろうのように揺れて消えてしまうようで寂しい。

『8人の女たち』(2002)で最年少の次女を演じたリュディヴィーヌ・サニエ。
中学生くらいの少女かと思っていたのに20代半ばらしい。
ぽろんぽろん惜しみなくこぼれるたわわな胸。均整のとれた美脚。いたずら少女のような幼いハスキーボイス。そして少しアクの強い顔。
あばずれ女ぶりが可愛らしい。
対するは1946年生まれのベテラン女優シャーロット・ランプリング。
目つきがいやらしい痩せ型のおばさん。
負けじとプールサイドで陽光を受け止める水着姿がつま先からなめるように映される。
しまいにはぺろ~んと。
ぺろ~んとありえないくらいに綺麗な胸が!
さらにさらに陰毛まで!
否応ない理由(?)から訪れたおばさんの性の解放は、シチュエーション、相手、共に滑稽に痛快。

映画『真珠の耳飾りの少女』

2003年 監督:ピーター・ウェーバー
at ギンレイホール


真珠の耳飾りの少女 通常版

とにかく主演のスカーレット・ヨハンソンが唯一映画の中に存在している人物かのような美しい佇まい。
禁欲的に落ち着いた映像の中、これまた禁欲的に頭巾で頭髪を覆い隠したスカーレット。
顔立ちが美しいというよりも服や頭巾では隠しきれない官能的魅力がスカーレットからあふれ出ている。

オランダの巨匠フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」にまつわるお話。
11人の大家族を養った寡作のフェルメールの生活や経歴には謎が多い。
この映画はトレイシー・シュヴァリエのベストセラー小説の映画化。
フェルメール(コリン・ファース)の家に使用人としてグリート(スカーレット・ヨハンソン)がやってくる。
気位高いフェルメールの妻や、くそがきに精神を侵食されるグリートが唯一安らげる場所はフェルメールのそこだけ聖域のようなアトリエ。
アトリエの掃除をせっせとするグリートと、聖域の主フェルメール。
グリート自身が否応なく放つ魅力とその隠された審美眼に惹かれたフェルメールは次第にグリートをアトリエに引きとめ製作の手伝いをさせるようになる。
だが、まあ、いろいろあるよな、当然。身分差とか一方は既婚だとか。ふつーに。
ストーリー上あっさりとしているけど、官能と醜さはそれなりに表現。だってフェルメールはあの奥さんとの間にぽんぽん子供作っちゃってるんだもんな。

フェルメールの妻(エシー・デイヴィス)はあまり美人じゃない。
だが一途に夫を愛しているのね。
ラストの方の嫉妬感情のとめどない表出シーンでは、顔くしゃくしゃ目しょぼしょぼで凄い顔しているのだけど・・・なんかかわいい人だ。

2004年10月9日土曜日

映画『H.G.ウェルズのS.F.月世界探険』

1964年 監督:ネイザン・ジュラン 特撮:レイ・ハリーハウゼン
BS2 録画


H.G.ウェルズのSF月世界探検

1964年、人類は初めて月に降り立った。と思ったらなぜか月の岩に小さなイギリス国旗の旗が刺さっているではないか。
旗とともにあった紙片には1899年と記されている。
衝撃の事実。人類は19世紀に既に月に行っていたのであった。

1899年に月に行った人物の物語が描かれる。
重力を遮断するいかした糊を発明したイギリスのいかれた科学者と、彼の発明に目をつけた欲深き破産者とその婚約者の三人が月に行っていた。
なにしろ昼は100度以上、夜は-150度以下という世界にただの潜水服で行こうとするのだから凄い素敵な奴らだ。
さあ、レイ・ハリーハウゼンである。月になにも生物がいないわけがない。
特大のむかでの化物かとおもいきや脊椎動物だったり昆虫のような月の住人がいたり。
って特撮や宇宙船の造型がナイスとかいう感想よりもとにかく無責任で自分勝手な人間という種族をいやというほど見せつけられて辟易する。
なんてアホで野蛮なんですかねぇ。
月という未知の世界への冒険ロマンと、おい、お前今地球に住む人類の一人としてとんでもないことしてんぞっていうどうしようもない嘆きが常に表裏一体にある。
もっと責任持った行動しようよ。大人なんだから。人類史上最高のバカップルに見えてしょうがない。

2004年10月3日日曜日

映画『キル・ビル Vol.2』

2004年 監督:クエンティン・タランティーノ
at ギンレイホール


キル・ビル Vol.2 (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第2弾)

明らかに変じゃん、よくよく考えるとおかしんじゃん、っていうことをタランティーノがさりげなく、でも気づけよと言わんばかりに堂々とちりばめつくした作品。
いや、別にこのシーンは何の映画のあのシーンのオマージュ(というかほぼ茶化し)だとかを楽しまなきゃいけないとか言ってるんじゃなくて(元ネタなんてほとんど俺分からなかったし)そうじゃなくて普通に考えてそれはおかしいでしょっていうのがいっぱいあるってこと。
この胡散臭さは他の映画ではそういうもんだと普通に納得して見ていたこと(ワイヤーアクションとか)も、さらには真面目そうなシーンまで全て胡散臭くする。
なんで胡散臭いかっていうのはこの人、絶妙にずらすんだよな。そして外れすぎそうになると突然リアルを加える。

身動きがまったくとれない状態(例えば運動マットにくるまれるなんて考えただけで恐ろしい)って僕大嫌い。
だからブライドが木の棺桶に入れられたときはこっちまで息が苦しくなる。
手足を縛られたまま棺桶に入れられ、蓋は釘で打ち付けられていく。
一本また一本と打ち付けられるたびに棺桶の中に差し込む光が喪失する。
最後の一打ちで光は全て閉ざされ、ブライドの荒い呼吸音と共にばさっばさっと土がかぶさる音がする。
今までの罪を悔いてブライドに殺される事を望んでいる風のビルの弟バドは、ブライドに懐中電灯を持たせていた。
闇の息苦しさに詰まって懐中電灯が点くとまぶしく浮かび上がるブライドの顔。今度は生き物として動く事を悲痛に禁じられた空間の息苦しさに詰まる。
懐中電灯でがつがつ蓋を叩いてみるがびくともしない。
どう考えても助からないでしょ。

はちゃめちゃでなんでもありだと思わせておいて突如現れるリアルにどきっとする。
硬い板を拳で何度も突けばそりゃ血も出るさ。
「五点掌爆心拳」なる最高にそそられる名前の必殺技の話が出てくるから埋められたブライドはこの必殺拳で板も土もぶわーっと吹っ飛ばすのかと思いきや脱出方法はリアルに地味だし。
かつ体が通れるくらいの穴が板に開く前にふりそそぐ土の重さで動けなくなるんじゃないかという疑問も、血を流す拳でついに板を破ったチープなまでの感動と土をかきわけゾンビのように地面から手が出現するシーンの笑いのためにどうでもよくなる。
ファンタジーながら生々しいリアルも突きつけ「ふんっ」と笑えるテイスト。混在のさせ方が上手い。

エル・ドライバーが隠していた毒蛇は彼女の暗殺道具じゃないのかね。
毒牙にかかり苦しむ男に向かってメモを取り出したエルは、ネットで調べたと言ってこの毒蛇の恐ろしさを高説する。
ふーん・・・えっ?ネットで調べた??この蛇の事よく知らんの?手塩かけて育てた暗殺道具じゃないの?
その毒蛇まだどこかに潜んでいるよ。お前も危ないじゃん!なに余裕かましてくつろいでんのさ。
かつブライドまでやってきて、狭いトレーラー内で金髪女二人の死闘が始まる。蛇はどこへいったやら。
日本刀を持った二人の人間。一歩外に出れば広がる荒野に出さずに敢えてトレーラー内。この狭さで刀は振れない。
狭い通路で静かに対峙する二人。この狭さだ、これは突きしかない。相手も突いてくるだろう。相手の突きを刀身でそらしながら突くか?等々無駄に考える。
忘れちゃいけないのは現実的な戦いなんてしないよね。
対峙する二人の距離が縮まりいきなりつばぜり合いになったっていいよ。他の映画でもよくあることだし。
そうなんだ。なぜか現実的思考をついしてしまうのはこの映画の胡散臭さ(ずらしと強引さと生々しさによる)のせい。
死闘が終わり立ち去るブライドの足元には、私はここにいましたよって感じでブライドを威嚇する毒蛇がいる。
しかもブライドは結局毒蛇の存在なんて一向に知らないまま立ち去る。かわいそうな蛇。

ところでビルの弟バドは凄腕の殺し屋だったらしいが、勤め先のクラブではガタイはよくないが強面の上司に遅刻を怒られ、無様に言い訳してはいいくるめられてうなだれるただのしょぼいおっさん。
本当は強いのに今は普通の生活をしている渋さ。
バドは最強の殺し屋ブライドを捕らえる。バドは凄腕なのだから。
しかしエルの話を聞いていると、バドが本当ただの間抜けなおっさんに見えてくる。
そうなるとそんな男に不意打ちとはいえ殺されかけたブライドまで間抜けに見えてくる。
周りの人物まで巻き込んでびみょーな人物に仕立て上げたバド。
腕のたいした見せ場もないまま消えていったバドだが一番魅せてくれた人物でもある。

西暦1000何年だかに伝説を作ったカンフーの達人パイメイ。ブライドはパイメイに師事する。
元弟子で恋人のビルがパイメイにブライドの弟子入りを頼みに行く。
ビルは顔にあざを作って戻ってきてブライドに弟子入りOKだと伝える。顔のあざの理由は言わない。手合わせでもしたのか?
この展開、元ネタは知らないけどいかにもカンフー映画にありそうな話で笑える。
パイメイは超人的に強い。剣で襲い掛かるブライドなんて軽くあしらう。おお、突いた剣の上に乗っかっちゃってるよ。ブライドはなんて怪力なんだ。
ブライドのカンフーはわざとそうさせたのか知らないが、腰が入らず手だけで繰り出しているようなチャチなカンフーで、かつ構えだけは立派だというバランス。・・・ん~、やっぱりわざとチープにしたんだろうな。
超人的に強い上になぜか超人的に傲慢なパイメイ。飯のシーンで短く師匠と弟子の感動的な愛を胡散臭いノリで描く。
超人的に強いパイメイ。"最後のとき"は一瞬普通に納得してしまったがすぐ思い直して笑う。

緊迫の突入から肩透かしで始まる親子再会。なんなの?この子供の初めて会う母親に対する感動のなさは。
大仰な感動にせず、少しずらす。
北斗神拳のような五点掌爆心拳もうまいことに笑い寸前の感動シーンを作り上げる。

語彙がとぼしいから簡単に「感動」って言葉を使っているけど実際に感動したのはなんだかんだ言っても「恨み節」の梶芽衣子の声だけだったのだけど。
・・・なんでこんなに文章が長くなったのかといえば、冒頭の段落で簡潔にこの作品全体の印象を書いて終わるはずが失敗し、むかついてとりあえずやめて部分的な感想を書いてみたらなんかわかるかなと思って書いていたら長くなっちゃった。
それで今この時点で考えがまとまったかというとさっぱしだな。
まあ、そこそこ面白い。vol.1よかこっちが面白かったな。

映画『レディ・キラーズ』

2004年 監督:イーサン・コーエン
at ギンレイホール


レディ・キラーズ

今頃知ったけどコーエン兄弟の作品だったんだな。ふーん。
オープニングは面白かったな。
魔女のようなばあさんの像が映し出され、そこにひょいっと大鴉が飛んできて頭に乗る。
画面は上空からの真下を見下ろす固定ショットに切り替わる。
橋と河が映し出されているのだけど、よく見ると橋の柱からなにかが突き出ていて、そこに鴉が止まっている。
これで先ほど映し出されていた像は橋の柱から突き出ていた像なのだと知る。変な像だ。
暫く見ていると橋の下からゆったりと姿を現す船には大量のゴミが積まれている。
動きのない画面から突如に動きが加わり、かつアングルが奇抜な位置に飛ぶ。そして再びたいした動きのないショットの一部がゆっくりと動いていくっていうつなぎ方の(まあ、書いてみるとシンプルだけど)センスにこの映画は面白いかもと期待を抱く。
・・・ああ、オープニングは「おっ」と思わせ面白かったんだよなぁ。

トムハンクス主演の犯罪コメディ。

さようなら、マイチャリ

※以下、いつも以上に個人的な話
愛用の青いママチャリ。7年ぐらい乗っていただろうか。
高校の頃一度トンボ型3段ギアの自転車に乗っていた気がするがそれ以外は一途にママチャリを愛用している。
この自転車、3回盗まれている。
1度目は蒲田で盗まれ、何日かして蒲田の全然違う場所で偶然発見して持ち帰る。
2度目は実家の団地の1階駐輪場に置いていたら盗まれた。
新しい銀色のママチャリを購入して乗り出す。
数ヵ月後警察から電話が入る。自転車が見つかったと言う。
交番に取りに行くと恐ろしい姿に変貌したマイチャリを見る。
前かごは取り外され、ハンドルは鬼ハン仕様、リアキャリアの後部は申し訳なさそうに斜めに折り曲げられ、ださいステッカーまで貼られている。
「あなたの自転車ですか?」と聞かれて思わず吹き出したが「そうです」と言って持ち帰る。
数日後、大学でいそいそ遊んで帰ると、親が今日下に自転車屋が来ていたから直しておいたと言う。
見に行くと、ハンドルは新しく付け替えられ、リアキャリアは見事に矯正され、なにか形的にバランスの悪い前かごまで付けられていた。
ちょっと不恰好なこの自転車より、新品の銀色チャリの方がよかったが、なにか惹かれるものがあったため銀色チャリは姉にゆずる。
数日後、地元の図書館で勉強していると突然中学生程の少年が「まじむかつく!」と叫んだ後、壁やドアをおもいっきし蹴っ飛ばしながらなにやらぼそぼそつぶやいて閲覧室を出て行く。
閲覧室でくっちゃべっていた奴がいたから勉強に集中できなくてぶちきれたのだろう。
直接言えよ直接。とりあえずこんな輩とは関わりあいたくない。
閉館後、自転車置き場に行くとオーマイガー!!マイチャリが苦しそうにぶっ倒れている上に前かごがぐにょぐにょにひん曲がっているじゃないか!
手で曲げられるような硬さじゃないのに、工具でも使ったのか?一部かごが破けている部分まであるし。とかそんなことはどうでもよく犯人は確実にあのアホな少年だろう。
久しぶりに腹が立ってなにか蹴飛ばしたくなったがそれはあの少年と同じなので思いとどまりかごのへこんだりしている部分をなんとか手で直す。それでも変形と破れた痕は生々しく残ったのであった。

2000年12月、蒲田で再び盗難される。
40分以上かけて歩いて自宅に帰る。
4日後、出かけるときにふとエレベーターホールの自転車置き場に置いてあった自転車になんとなく近づいてみる。
ん?色、形といい、かごの破れといい、正しくマイチャリ。
オー!マイチャリ発見!
もしやあの日蒲田まで自転車でいかなかったのかと考えてみるが、バスに乗った記憶もましてや歩いた記憶も全くない。間違いなく自転車で蒲田に行きそこで自転車は失踪した。それに私はいつも自転車は1階に置いているからエレベーターホールにあるわけがない。
・・・自分で帰ってきたのか。
蒲田で消えたチャリが今我が団地の我が住んでいる階のエレベーターホールにいるという事実にぞっとする。
親がどこかで見つけて持ってきたのか?いや、そんな話聞いてないし鍵もかかったままだ。
自転車には住所も名前も書いていない。私の住所と私の自転車を知っている人。自転車見つけてくれたあの警官?にしても黙って置いていくわけないし。
とりあえず戻ってきた事は確かだし、この日は姉に譲った銀色チャリを借りて出かける。
翌日、夜、母と自転車の怪異について話していると「鍵はちゃんと開くのか?」と聞かれる。
未確認だが、見たところ鍵の種類が変わっているとも思えない。
「なんで確かめないんだ!」と怒られる。
私は考えもしなかったが、母は団地のこの階の住人が盗んだ可能性を考えているらしい。
怒られた事にむっとして、確かめりゃいいんだろと怒って鍵持って行ってみる。
まさかと思ったが鍵ははいらなかった。
偶然にも蒲田で私の自転車を盗んだ犯人はこの階の住人だった。
だが、どうすりゃいいんだろう。
さらに翌日、母と一緒にもう一度鍵を確かめに行ってみる。
家を出るとちょうど初老の小柄なばあさんがエレベーターを待っていた。
人がいるところであまり話したくないなと思いつつ、親とやっぱりうちの自転車だよねと話している間中、ばあさんは興味ありげにこっちを見つめ続ける。
ばあさんがこちらに近づいてくる。
「それ、おたくの自転車ですか?」
そうだと言うと「ああ、ありがとうございます」と言うので驚く。
このばあさんは一体何を言っているのか。
話を聞くと、ばあさんも自転車を失くしたらしく、それで雑色駅のすぐ近くにあるスーパーの駐輪場で自分のによく似た私のチャリを発見し、鍵も合ったので持ち帰ったそうだ。
母はしきりにこのハンドルやかごは別物をつけた奴だとかリアキャリアの直しの跡などを説明する。
ばあさんは家から鍵を持ってきて「ほら開くでしょ」と実演して見せ、「あたしも鍵が合わなければ持ってこなかったんですけどねぇ」と言う。
このばあさんも耄碌してただ自分の自転車と間違えたのだからそんなに責めなくてもと思いつつ、ひとまずこの自転車が私のチャリだということに納得してもらったので別れてそれぞれの家に帰る。
母は怒っていた。
あのばあさんはちょっと変人と噂されている人らしく、言ってることもめちゃくちゃで絶対ばあさんが盗んだと言い張る。
よくよく考えてみると最初の嘘とは思えないセリフ「ありがとうございます」で驚くと同時にこのばあさんは悪くないと思い込んでしまった。
だからただ間違えただけなのだと。
しかし自分の自転車だと思っているのならおたくの自転車かなどと聞くか?むしろ私の自転車になんか文句あるのかくらいの勢いで私と母を問い詰めるべきだろう。
それに私と親の会話を耳にしてもしや自分の自転車じゃないのではと思ったのなら二言目に「すいません」と言うべきがいきなり「ありがとうございます」とは何なのか?
ばあさんが最後に言った「じゃああたしの自転車はどこなのかしら、下にあるのかしら」というセリフにも母は大激怒した。
確かに失くしたと言っているのに「下にあるのかしら」じゃないだろ、って。
っていうかなんでこの支離滅裂なばあさんの話に聞いてるとき私は疑問を持たなかったのだろうかという一点にげんなりする。
さらに翌日、大学行くために家を出てふと見ると私の自転車がない。面白すぎて笑ってしまった。
帰りに見たらあったからこの日ばあさんが乗っていたということだ。
この事実を話したら(何度も書くが)母は激怒した。
さらに翌日、以下聞いた話、私は見ていないが母の話ではこの日もやっぱりばあさんが乗っていたらしい。
たまりかねて母は近所のおばさんと共にばあさんの家に問い詰めに行った。
ばあさんは「えっ?あたしが?」とすっとぼけたり、自転車はどこで買ったのかという問いに商店街の店だとかオリンピックだとかとにかく言ってることがめちゃくちゃだったらしい。
暫く問い詰めているとばあさんの夫が出てきて全て判明する。
夫の会社(工場)が蒲田にあり、夫は妻(ばあさん)の鍵を失くしたという話を聞いて、車で蒲田に止めていた私のチャリを工場まで運んで鍵を壊したらしい。
おい、雑色のスーパーで見つけたんじゃねーじゃん。鍵が開くのを実演して見せたのだって自分で付け替えたのなら開くのは当然だし。
さらに翌日、ばあさんが家に来たらしく「蒲田で探したら私の自転車ありました、すいません」としきりに謝って帰ったとのこと。
ばあさんの自転車を教えてもらって見てみたら確かに私のと一緒で青系の自転車だがどっからどうみても全然違うじゃん!

ついでだが・・・
その2日後くらい、母が自転車で事故った。
車の運転手は「かんべんしてくれよ」と言って逃げたらしく、他にも周りにいた人たちの自分に対する冷たさにさんざん文句を言っていた。
ってつまりまあ軽症だったのだけど。
母の怒りは収まらない。警察に乗り込んで行って大分経ってから戻ってきた母は苦笑い。
なんのことはない、その事故った交差点は信号があったそうだ。
長年それに気づかなかった母は猛スピードで信号無視して突っ込んではねられた。
たいした怪我じゃないからよかったが。

2001年の夏には硬かったサドルに柔らかいサドルカバーを装着。
タオル生地の薄いシュラフも購入して自転車旅行へ。
東京から日光、水戸、霞ヶ浦とぐるっと北関東を回ったのも愛用のこの青いママチャリだった。
日光の坂を下った朝6時には前輪ブレーキのワイヤーがぶちきれる。
苦楽を共にした思い出のママチャリ。

話は今日に戻る。
朝からしとしと雨が降り続ける。
傘をさして歩いて蒲田に行く。
会社の駐輪場に置きっぱなしだった自転車を引きずってパンク修理のため自転車屋に持っていく。
修理をお願いして店員の兄さんがチェックすると「ああ、これはもうタイヤもとりかえなきゃ駄目ですね」と言われる。
そういえば3,4年前にも別の自転車屋でそんなこと言われた記憶がある。
タイヤとチューブを取り替えるといくらになるか聞くと、4千円弱だと言う。
一瞬迷ったがお願いする。
1時間後くらいにできると言うので名前と電話番号を書いてマックに向かって歩き出す。
大分歩いてから電話が入る。
店からで、「ペダルの方に違和感を感じませんでしたか?」と聞かれ、なんの話かと思ったらペダルががたがたで中の軸も壊れてしまっていて直すとなるとさらに4千円弱かかると言う。
う~ん。とりあえず修理を待ってもらって店に戻る。
店で店員の説明を聞いてペダルの状態を見せてもらうと確かにがこがこだ。ずっと前からそんな感じだったから気にしていなかった。
考えてこの愛着のあるママチャリを思い切って処分しようと決意する。
タイヤの溝は磨り減って完全に消失し、ベルは自転車買って二月くらいで盗まれたままで、ライトは3年前から点かず(何度警官に呼び止められたことか)、防犯登録の番号の一部は盗まれた際に削られ(何度警官に怪しまれた事か)、サドルカバーには細かい穴が開いてしまったらしく雨の日から3日経ってもサドルに座るとケツがパンツまで濡れるから見た目は悪くともスーパーのビニール袋をサドルにほぼ常にかぶせていたし(サドルカバーを外せばいいという話だが)、さらにはペダルがガタガタときたらこれはもう。
とりあえず持って帰ってゆっくり次の自転車をネットや店で調べようかと思ったが、ちんたらしないでこの店で買ってしまおうかと思う。
店にある自転車を見せてもらう。
かごと荷台が付いてるのがいい。長距離、例えば東京から京都にも耐えうる自転車がいい。MTBもいい。折りたたみもいい。
決められない。というかパンク修理に来ただけなのにいきなり別れが訪れたことへの戸惑いが消えない。
未練がましいことは言うまい。
最後に店員に勧められた自転車を思い切って買う。
が、金がないため一先ず銀行へ行く。
出るときにあの自転車はどうするかと聞かれ、処分をお願いする。
ああ、そういえば今まで自転車の買い替えは全て盗まれた契機だったな。自らの意思で終止符を打ったのはこの青いママチャリが初めてだ。
店の外から既に店内に運ばれている私のチャリを見やると、あの歪んだカゴがにこやかに笑いかけているみたいだった。

金を持って店に戻ると青いチャリはどこかにやられて消えていた。
代わりに購入した自転車が置いてある。
さて、問題はこのニューチャリだが色が微妙だった。
クリーム状のうんこ色に前後輪の泥除けとチェーンのカヴァーが艶のある黒色で、うんこ色も微妙だが黒との組み合わせもまた微妙。
店員はこの色や取り合わせがかっこいいと言う。
のせられて買った自転車だが青いママチャリの後継機、大事に使おう。
と思った矢先から駅近くの違法駐輪の列に止めて雨ざらしで飯田橋へ。このくらい耐えてもらわねば。


2004年10月2日土曜日

映画『ミッドナイト・エクスプレス』

1978年 監督:アラン・パーカー
BS2 録画


ミッドナイト・エクスプレス 製作30周年アニバーサリー・エディション

なんじゃ、列車が出てこないじゃん。
トルコから麻薬20kgを持ち出そうとしたが、あちゃー、失敗しちゃった。
アメリカの若者ビリーはトルコの刑務所に収監される。

飽きずに見れる。
主演のブラッド・デイヴィスは無駄にむきむきだしアホそうで嫌な顔してると思ったが、結構熱演。

2004年10月1日金曜日

今週は

9/27(月)の田川寿美コンサート以来なにもする気が起きずに仕事を辞めましたなどという論理が成立するべくもなく毎日あくせく働いていたのだがこういう気力の無いときに限って仕事が忙しいという不幸に見舞われた上に一月前に直したばっかなのに再び自転車がパンクするという不運が重なり本気で悲しい寝不足状態のまま今朝の満員通勤列車でつり革に掴まってうとうとしているとすぐ近くに立っていた茶髪のスーツ着た兄ちゃんが目の前のおっさんにもたれかかったと思ったら崩れるように床に倒れ、大丈夫ですか!とびっくりして声をかけても反応なくうつぶせている兄ちゃんの目はうつろに開いたままで、時折体全体で痙攣する姿を見ながらどうすればいいのか全く分からずおろおろしていると若い私服の兄ちゃんがとりあえず次の駅でおろしましょうと提案し、倒れた男の周りにいた乗客は皆心持ちほっとしたように男を見下ろしたりそっぽむき出したりで、あまりに自分は無力だなぁという気持ちと車内はあんなにぎゅうぎゅうだったのに男が倒れた途端にえらいスペースができたのねと気づいて感慨にふけりだし始めたところで男がおもむろに開いた目のまま両手だけを動かし手のひらを床にぴったりつけ、ぐぐっと起き上がったので息を詰めて皆が見守り、心配そうに見つめていた乗客は立ち上がり目頭を押さえている男にむかって大丈夫ですかと声をかけ、おばさんがとりあえず座った方がいいですよという言葉を聞いた着席中のがたいのいい30才くらいの人が立ち上がり席をゆずり、結局2,3人が無駄に空けてくれた席に着席した男を見て車内はいつもの満員列車に戻ったのだけど、尋常じゃない倒れ方した男は大丈夫だろうかと心配しながらも浜松町に着いたために先に下車して築地市場の会社で仕事をこなし、帰宅の電車ではぼーとしすぎて蒲田に着いた事にも気づかず閉まりかけのドアを危うく飛び降り、いつものくせで会社の自転車置き場に向かって歩いたがそういえば自転車パンクしていたんだと思い出したときには自転車の置いてある家とは反対方向に大分歩いてしまったために来た道を引き返して歩いたら20分以上はかかる家までの道のりを思って鬱屈しながら22時をまわった今、家で何か作る気も無く火曜に買ってきた食材をほとんど使っていないことが不安ながらコンビニに立ち寄り弁当を買おうとしたが食いたいものがなくてしょうがなくカップラーメンと肉まんあんまんを購入して帰宅すると、先日のコンサートのDVD化はなさそうという情報を得てどよーんと沈んだ。