BS2 録画
金髪のアメリカ人の子供のようなホルシードが主人公。
この少年は目が見えない。母と二人暮し。貧しい。
大家が家賃を払えないなら追い出すと言ってきている。
金が要る。
金を得るために盲目の少年が活躍する、という展開にはならない。
普通にいつもどおり、バスで勤め先の楽器工房に行って調律の仕事をこなす少年。むしろ状況は悪化する。
大まかなストーリーはそんな感じ。
ストーリーはさっぱし分からないんだけどかなり面白い。
大家が家賃の催促で叩く嫌なドアの音が少年にはベートーベンの「運命」のフレーズに聞こえる。
「運命」のリズムはいたるところで喚起され、仕事場の少女からやがて見知らぬ人々まで波及し、少年を円の中心として最後には一大交響曲を構成する。
と書くといくらか語弊があるな。
まず、「運命」のダダダダーンのリズムは作品冒頭を忘れているとかなり唐突な違和感と共に出現する。
少年がこのリズムを大家がドアを叩く音だと認識していると知るのはまだ先の話。イメージはすぐにはつながらない。
少年は「運命」のリズム、さらには"いい音楽"を求めて盲目の危なっかしさを常に秘めながら街をさまよう。仕事よりも、金よりも、家を追い出されることよりも重要な。
少年に思いを寄せている"らしき"少女は、少年の頭にこびりついているリズムを奏でられない。
しかし自分をクビにしようとしている親方がガラス戸を叩く音はまさしくそのリズムであったりする。
少年にとって嫌な音であるはずのリズムが"いい音楽"であるという矛盾があり、かつその矛盾が徹底されて嫌な人物のみが奏でる音という意味づけが出来るとしたらなんて簡単なことだろうか。
しかし事態はもっと複雑で、「少女が奏でられない」と言いつつも実は最後にタンバリンで親方のリズムとシンクロして奏でられていたともとれなくはない。
嫌な人物のみどころか見知らぬ金物打ちの少年や見知らぬ流浪の芸人も少年に教わる教わらないを問わずに奏でるし。
そもそも少年が人に伝えるときに口で言ってみせる「ババババーン」というリズムの音程は「運命」からは遠い音程であり、少年が「運命」を聞いたことがあるのかないのかもはっきり示されない。
知っているのかそれとも少年の想像力が生み出した音楽がたまたま似ていたのか、時折挿入される「運命」の曲や少年が民族楽器で自ら奏でるリズムと音程のみが「運命」を連想させる。
とにかく「運命」のダダダダーンのリズムが様々なシチュエーションと様々なイメージでひとところに落ち着くことなく現れる。(この映画はなんでもかんでもひとつに定着することは徹底的に嫌われる)
リズムが人々に意識無意識関係なく波及しているのを見ていると、当然最後にオーケストラによるベートーベンの交響曲第5番が高らかに流れる瞬間があるはずと思って期待するのだが、確かにラストで期待するような場面があるけれど爆発的な感動シーンではない。
その場面はストーリー上のある転換点ではありながら、ストーリーが大いに盛り上がったところで出現するわけではないから。
そして第五番は結局最後までオーケストラで奏でられる事はなく、全て民族楽器で演奏される。
ラストでオーケストラの演奏が大々的に流れたら安直に感動してしまったかもしれない。それじゃあ作品の質が落ちる。
マフマルバフは安易な感動シーンなど作りはしない。ダダダダーンのワンフレーズだけを作品中に散りばめて、その後に続くフレーズを一切排し、欲求不満を溜めさせた上でラストに一気に開放する、というようなこともしてないしな。
それなのにラストが感動的なのは後で述べる。
この映画はあまりに説明的でないため、誰かにストーリーや設定を逐一説明してもらいたいようでいて、誰の説明も必要なくもある。
人それぞれに様々に解釈できるから自分が解釈したことでいいじゃないかということじゃなくて、そもそも意味づけや解釈の整合性を保つ意味があまりない。
少年が母に連れられ河にかかった橋をゆっくりと渡った時から盲目の少年を夢幻に廻る円の中心に配した、氾濫する相克のイメージをひたすら冷静に全身で受け止めて温めていけばいい。
少年が働く楽器工房の外壁には、大小様々な木製の車輪が立てかけてある。
ひっそりと動きを止めて佇んでいる車輪が背景としてただ自然にそこに存在しているのだけど、なぜここに?の違和感を感じ出したら円のイメージに囚われてしまう。
思い出せば一列に並んだ女性達が押並べて顔の横にかざしていたパンも、カゴに積まれたざくろやりんごもさくらんぼも携帯ラジオのスピーカー部分も少女のあごのラインも少年の柔らかい頭髪の形も皆丸かった。
流浪の遊牧民が奏でる音楽を追いかけ、仕事場に向かうバスを途中下車する少年。芸人は馬車で移動する。
歩いて追いかける盲目で無力な少年に話しかけたのは人力車の少年。馬車を人力車で追いかける。
馬車のこじんまりした黒い車輪に比して、圧倒的にでかい(かつ軸のゆがんだ)人力車の木製の車輪。
大きさで勝っても馬力で劣る。
馬車と人力車が交互に映されていたのが次第に人力車ばかり映されるようになり、最後に馬車はどこともなくいなくなる。
だってどちらかというと無骨な人力車の車輪のほうが魅力的だから。だいいち壁に立てかけて静止していた車輪が今ここに見事に回っているのだから映すしかないでしょう。
円形や丸みが優位な世界では四角形や角ばったものは異質になる。
少女の持っていた長方形の手鏡は、たとえそこに鮮やかなさくらんぼが映し出されようが、指でなぞってまあるい顔を書こうが、所詮媒体が長方形なのだから少年の手で必然的に割られてしまう。
長方形の映画のスクリーンに対するジレンマのように。
もうひとつ、頭髪に巻くスカーフは頭の形を見事に丸く見せてはいるが、少年に似ても似つかない母親の顔は見事に角ばっている。
けりをつけなければ。
契機は期限が切れて家財道具とともに家を母親が追い出されたときにやってくる。
家を追い出されないために少年は頑張っていたはずだが、悲しくもお金を用意できなかった。
川沿いに建つ少年の家から小船が出て、そこには追い出された母親が乗っている。
この時少年は家におらず、対岸でその姿を眺めている。(少年には見えないが)
荷物とともに小船に揺られる角ばった母親。荷物というのがなぜか長方形の大きな鏡。陽光をあたりに反射して存在感抜群。
少年は母親の呼びかけにも答えずにその場を立ち去る。
盲目の少年が「運命」のフレーズを織り交ぜた馬の走るリズムに乗り、川辺を水しぶきを上げて馬のように走って。
お金も生活も、社会も肉親も断ち切って、聴覚と想像力を研ぎ澄ませた少年を円心に危うい夢幻の世界が成就する瞬間。
この瞬間にあの第五番が民族楽器によって演奏されるのだ。
かつ、少年の指揮と、流れる音楽と、画面に映る演奏する金物職人の3つは関係性で互いにつながりあっているのだが、てんでばらばらだったりする。
完全にフィットしないずらしの摩擦がうねり狂う渦になる。劇的に動的な瞬間。
危うい感覚やイメージというのも溢れている。
なにしろ少女の唇とあごのアップの多用は本当に監督はやばい人なのだと思った。
大人の女性と少女の狭間にある生々しく妖しい官能。そこまでどアップにするか。偏執的に追う監督。
そもそも盲目の少年が街をさまようこと自体が既に危ういんだけどな。
少女が発車しそうなバスの前を二度も横切ったり、親方に大事な耳を無造作に掴まれて引っ張られたり、割れたガラスを掴んだり、雨の中川辺を楽器を抱えて少年が走るシーンが意味ありげに(意味は特にないんだろうが)スローモーションだったり。
全て大事にはいたらないが、危ういイメージは付きまとう。他のイメージと相互に戯れながら増幅されて。
円形や丸みも他のイメージと合わさると危うい魅力を放つ。
少女の耳にかけられたさくらんぼ。少年が楽器の調律のためにかき鳴らすリズムに合わせてあごを振って踊る少女。丸いさくらんぼが揺れる。少女の官能の危うさと揺れるさくらんぼの艶のある円形の危うさ。
パンを買った少年の眼前に突き出された円形の平べったいパン。女性は少年が盲目のために気づいていないと知って、かざしたパンをそのまま優しく少年の丸い顔に付ける。
小さな驚きとともに気づいた少年は片手でパンを掴みながらもう一方の手でお金を渡し、そのまま丸いパンをひとかじりする。
この一連の動作の流れる美しさと、喰われることで不意に円形の均衡が崩れる危ういイメージ。しかしパンを売った女性の顔の横には次の円形のパンがかざされていて、何事もなかったかのように大きな円の循環で円が復活している面白さ。
名前を知らないが球形を形作る白の混じった赤紫色の花がある。その花弁を一枚ずつむしりとる少女。球形からもがれていく。花弁は少女のそばかすの顔のアップとともに鮮やかに付け爪へと変身する。同時に花弁を数枚もがれても球形をなんとか保っている花が、不完全さの魅力で残酷なまでに生き生きとしてくる。
微妙なずれ。
楽器を奏でる遊牧民は、最初なかなか顔がはっきり映らなかったため、勝手に若い青年だと思っていた。
しかし少女に話しかけられて振り向いた遊牧民は特徴ある顔したおっさんだった。えーっ。
盲目の少年の服が面白い。上は黒いセーターのようなものを着ていてかっこいい。だが背中の下の方には銀の竜の刺繍が!
下はなぜか黒いスパッツ。腰のあたりだけに白いラインが入っている。上と下のバランスからみて、上のもこもこに比して下があまりにぴっちりしているから少し弱弱しい。
上のセーターは脱いだり着たりと頻繁に着替えられる。セーターの下は白いTシャツ。キャラクターがプリントされた薄いシャツが女の子ものの服に見える。
一番面白かった服が人力車の少年が着ていた青いTシャツで、このTシャツは肩まで大きく開いた丸首のため、必死に走る少年の右肩から今にもずり落ちそうになっている。
薄い髪してうつろな表情で車を引く人力車の少年。いやらしいダンサーみたいだ。
盲目の少年は目が見えない分、蜂の羽音を聞き分けるほどに聴覚が敏感らしい。少年に流れ込む音は聞こえるものだけじゃなくて膨らんだイメージに溢れている。
音に敏感、のはずなのに。楽器の調律の腕は悪いらしい。ガラス窓に密閉された四角い空間の中で設定ははかなく揺れ動くのか。少女の方が「音が合ってないわ」と敏感だし。
固定的なイメージは避けられる。また、勝手に作ったイメージははかなく崩され、そして思いもしないイメージが突然付与される。
"ずれ"や微妙さによってもたらされるイメージは常に流動的重層的で、溢れるイメージと格闘している様。
少女は盲目の少年をひたすら見つめる。少年には見えないのに耳にさくらんぼをかけて着飾ってみたり。
少年が迷子になったとき、少女は少年と同じく目をつむって視界を閉ざす事で少年とシンクロし、見事に見つけることが出来た。
なのに少年が大家がドアを叩く音は「ババババーン」だと言っているのに少女は「ババババ?」と可愛らしく返したりする。
「ババババーン」だと言ってるじゃないか!あほか!わざと間違ってるの?
円いタンバリンで何度叩いて見ても「違う」とダメだしされる。
とにかく少年とシンクロできない。
着飾って一心に少年を見つめてみても、少年は少女を見ることが出来ない。
大人になりかけの少女が少年を見つめることで見つめられることを想像する。つまり着飾った自分を一心に見つめているだけなのかもしれない。
年上の少女にとって盲目の少年は恋愛感情の対象ではなくて自分を反射して映し出す鏡か、可愛い弟か。
家からバスで通う親方の家だが、親方の家からたいして歩いたようには思えないのに少年は自宅の対岸に歩きつく。
そして少年がそこから馬のように飛び跳ねて駆け出すと、一気に鍋打ちの少年のところまでたどり着く。
鍋打ちの少年はバスを途中下車したところにいたのではなかったか。
自宅、鍋打ちの少年がいる所、親方の家の3箇所はバスで移動しなければならないほど遠いはずではないのか。
水辺の背景で水しぶきを上げて走っていた少年の幻想的なスローモーションから、瞬間移動とも言える空間の移動が行われるとスローモーションが解かれる。
移動後の背景は生活空間である鍋打ちの少年のいる背景で、日常の空間を先の空間の続きのように少年が馬のように飛び跳ねて画面を横切っていく。
違和感のともなった感動的な遷移。
少年が出現すれば日常空間も次第に幻想空間に変貌する。
着ていた黒いセーターがいきなり肩からかかっているだけになっても、少年の指揮を見ているはずの鍋打ち達が全然少年の指揮に合わせていなくても、スポットライトのように光が降り注ぐ地点で少年が立ち止まって両手を挙げたとき、肩からかけていたセーターが落ちて上半身裸になっても、?マークどころかイメージが相殺されては次々に湧き出てくる不思議なラスト。
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