BS2 録画

ああ、やっぱり暗い。
11歳の少女ヴーラと5歳の弟アレクサンドロスは、ゲルマニーア(ドイツ)にいるというまだ見ぬ父親を探しにドイツ行きの国際急行に乗り込む。
無賃乗車なのですぐ降ろされてしまうが。
叔父から、父親がドイツにいるという話は母親の嘘であり父親なんかいない、という事実を信じられないまま聞きながらも、二人は家に帰らずにドイツに向って旅を続ける。
夜中に知らない街にぽつんと放り出されても動じることない二人を見ていると、金も無いのに飯はどうするんだ?どこに泊まるんだ?という疑問が当然生まれてくる。
誰か優しい人が救いの手を差し伸べてくれるのだろうか?
しかし二人の前に現れるのは、トラクターに引きずられてそのまま放り出された瀕死の馬や、背後で無関係に騒がしく通り過ぎていく結婚式の集団だけだ。
この異様なショットの後にすぐ翌日(山中の寂しい道路を二人が歩いているシーン)に切り替わるので、ああ、男でも女でもない聖的な存在の子供達が、人間の基本的な営みを超越してギリシャを旅しながら彼らを中心に詩的な映像が綴られていくのね、と勘違いしてしまった。
だからヴーラがあんな目に合うなんて想像もしなかったしショックも大きい。
その衝撃はいつまでもちくちく痛みとして残り、ラストも悲しい解釈しかできない。
超越した存在なら暗いもくそもないのだが、詩的でありながらあまりに現実的でもあるため、悲しくて美しい。
映画を見ていてカメラを意識することってあまり無いのだけど、これは結構気になる。
走り去る列車を固定カメラで映すシーンでも、それが列車が小さくなるまで長々と映されると、その列車に乗った姉弟がもう手の届かないどこか遠くに行ってしまうような寂しさがこみ上げてくる。
しかし次のシーンではカメラは車内の二人を映し出すのだ。
カメラに国境や距離は関係ない。
そんなカメラが映し出す世界は、瀕死の馬とか雪に大人が呆けるシーンとか海辺の旅芸人の超長まわし360度パンとかバーに紛れ込んだ鶏の静謐とか宙を舞う石造の手首とか、異様なショットがちょいちょい挟まって現実離れしているのだけど、ストーリーも映像もこんなに切なくて悲しい映画はめずらしい。
アンゲロプロスの映画の中でもこの映画は、詩的な叙情性とストーリー性とのバランスがよくて一番好きかもしれない。
ヴーラ11歳っていうのはgoo映画のページから取ったけど、ヴーラ役の少女の実年齢はもう少し幼い気がする。
妙に大人びた顔をしていて不思議な感じのする子だ。
ラストの解釈は一般的にはどうなんだろうとネットで調べてみたけど、ラストということでネタばれになるのかあまり書いてないなぁ。
それよりも旅芸人の青年がホモだったという記述に驚いた。
確かにヴーラが青年の下を離れた理由がよく分からなかったのだけど、ホモならばなんとなく辻褄が合う。
でもやっぱりいやだな。青年との別れがつらくて何も言わずに旅立ったって方がいいっしょ。

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