at ギンレイホール

安モーテルの一室で物語りは展開する。舞台はこの部屋のみ。87分の密室劇。
登場人物は12人・・・も出てこず、3人のみ。
要は片思いやら嫉妬やら各々のプライドが交錯して、事実が姿を見せ始めるにつれて3人の力関係がゆらゆらと面白く揺れる話。
アメリカ人はプライド高いんだな。めんどくせーやつらだな、と思った。
気に入ったセリフ
「一体なにが狙いなんだ?」

映画祭のシーンにサンドリーヌボネールが出演している。いや、それよりもなんだ!その近くに立つ女は!
金色の蛇のビスチェをまとった女。乳首出てるぞ、おい!
この後、主人公であるロールとこの蛇女が便所で濃厚なレズシーンを展開。1000万ドルするビスチェの強奪計画の一環なんだけど、もうなにがなんやら。
ロールを演じるレベッカ・ローミン=ステイモスはなかなか綺麗な人。ただしスタイルは蛇女の方がいい。
ロールは悪女で、頭が切れる上にスタイルがよく、高貴な美貌を持つ。
男どもはロールの手のひらで裸踊りをする。
どうせなら最後まで巧妙な演技で男を騙し続ける悪女でいて欲しかったな。
でも、ラスト近くの白スーツ姿のロールが一番綺麗に見えたりもする。
映画の最初のビスチェ強奪シーンから引き込まれて見ていて、その後も怒涛の展開をするのだけど、疲れた。
もう一度見る気にはなれない。

家にみかんを置いたらすぐ家を出て、ちゃりんこ乗って蒲田へ。
大学時代の友人と飲む。半年振りくらいか。
飲んだ後シャノアールに行く。
すっかりくつろいでいたら、友人がいきなり時間がやばいと言うので慌てて店を出る。
駅の改札まで送って、俺も帰ろうとちゃりんこ置いている所まで歩いているときにふと気づく。
あ、シャノアールに俺のなによりも大事なPHS置いてきちゃった。
店に戻ると、無愛想な感じだった女性店員が笑顔で、しかも両手を添えてPHSを渡してくれる。
家に帰って、女性は優しさと笑顔に満ち溢れているだけで男にもてるに違いないと、みかんをほおばりながら思う。
思いがけずみかんが美味い。
昨日暢でもらった食い物はカスタードプリンだった。甘さ控えめでかなり美味かった。
昼に店行ったらなぜかカウンター席にずらっと学生っぽいやつらが座っていたので入らなかった。
今日家帰ってからすぐコタツを出した。
コタツ自体は机として使っていたので、正確にはコタツ布団を出した。
背伸ばしておりゃってロフトにあるコタツ布団をぼとんと落としさえすればいい。簡単だ。
ここのところ家の中でぶるぶる震えていることが多くて、いつも今日こそコタツ出そうと思っていた。
ただ、「今日は寒いけど明日の最高気温は16度になってるじゃん」とか知るとまだいっかと思ってしまい、伸ばし伸ばしになっていた。
ここまで伸びると、もっと相当寒くなってからか、なんかのきっかけがあったら満を持して出そうと思っていた。
で、今日なにかそのきっかけでもあったのかというと、何もない。なんとなく思い立って出した。
こたついいね。飯食って寝っころがっていたらガピーって寝ちゃったよ。
おちはないです。
先日同窓会がありその時久しぶりに会ったある友達と会話した。
酔っててはっきり覚えてないのだけどその友人の女友達誘って飲みに行く約束を取り付けた気がする。
友人は約束を果たしてくれた。今日新宿で開かれる。
「じゃあ2対2で」と同窓会のとき言われた記憶がある。
実際今日何人来るのかとか詳しいことは聞いていない。
電車に乗ってから少し緊張してくる。
どういう説明をその女友達にして今日の飲み会が開かれたのか知らないが、いわば小さな合コンだろう。
合コンデビューだ。はっはっは。
メンバーはオレと友人、そして友人の元バイト仲間の女の子とその大学の友人だった。
よっしゃーテンションあげんぞー!って意気込みも段々薄れていく。
気づいたら女の子が二人で喋って盛り上がっている。
気づいたらオレはたばこを一箱吸い終わっている。
気づいたらオレは天然ボケの男にされている。間違っちゃいないけど。
10分くらいでギブアップしたかった。
帰りの電車で聞いた話だが、この飲み会は実は以前から企画されていて、オレじゃなくて友人の後輩かなんかが来る予定だったらしい。そしてそいつが来れなくなったところにちょうどオレが現れた、ということらしい。
オレが言い出して開かれたのに言いだしっぺのオレがほとんど喋らなかった、なんてことだったら失礼で最悪の男になるところだ。
最悪の男からただのつまらない男へと格が上がって安心する。
合コンはもういいや。女男に限らず1対1でしかオレはよく喋れない人間なのだと改めて知った。
そういえば帰りの電車で初めて女の子二人の苗字を知った。しかし忘れた。二人ともあだ名で呼びあっていたのであだ名はまだ覚えている。
結構面白い。主人公の行動にいらいらする部分もあるけど。逆に言えば、こうすればいいのにと思う行動をとらない分はらはらして面白い。
主人公の豆腐屋の家がまたいいんだな。
豆腐作りの作業場の雰囲気や、家の門の前に広がる光景とか。
門の前はすぐ川かなんかになっている。肩幅くらいしかない橋が門からゆったり左にカーブしながら伸びている。
映画は全体的に滑稽さや寂しさが山間の村にやんわり染み出ていていい。
まあ、そんな感じ。

昨夜は中学の同窓会があった。
変わった人、変わってない人、様々だが、女性は押しなべて変わっていた。そして皆綺麗になっていた。
酒をがぶがぶ飲みすぎた。しかし残っている吐き気はたばこによるものだろう。
何度目覚めては寝てを繰り返したか分からないが、午後1時過ぎにようやく布団をたたむ。
まだ気分はすぐれない。
ホットココアを飲む。パンを買うのを忘れたので一口サイズのクランチチョコを2つほおばる。
なにか放心して何もする気が起きない。
酒を飲むと気分が鬱屈する質であり、仕事でさんざん嫌な思いをした週の終わりにあった同窓会だったため、いまいち乗れなかった。
気分転換が苦手なことを恨む。
同窓会の消化不良具合がそのまま寂しさになった。
カーテンを開けると陽が差し込む。
暫く眺めてから外着に着替えて家を出た。
自転車をゆっくりこいで池上本門寺にむかう。
天気がいいと思っていたけど、次第に曇ってくる。微妙に寒い。
本文寺を散策してから街を見下ろせる高台で一服する。
ふと池上に住む友達に洋楽のビデオを貸したままだったことを思い出して電話をしてみる。
つながらなかった。
空はどんより曇っていた。
今度は昨日5年ぶりくらいにあった友達に電話をしてみる。
彼の家にべろんべろんになったもう一人の友達を置きざりにして昨夜僕は帰宅した。
死んだように眠っていた彼が今日ちゃんと帰ったかを確認して電話を切る。
腹が減ったので蒲田に向かう。
東口のミスタードーナッツに入ろうとしたが混んでいたので、2件となりの喫茶店に入る。
200円の安いホットコーヒーを頼み、食べ物は選ぶのがめんどうになったのでコーヒーだけ持って2階に上がる。
窓際に座ってぼーっとする。
向かいに見える蒲田の駅ビルや歩く人の流れを見ながらたばこを吸ったり、高橋三千綱の短編を読んだりして時間を過ごす。
1,2時間ぼんやりして、暗くなった頃に店を出る。
マックに行き、落ち着かなかったので腹ごしらえをしたら早々に出る。
駅ビルの本屋やCDショップをうろつく。
夜の蒲田、駅前のごみごみした人に埋もれてふらふら歩いてみる。
たいして面白くもないことに気づいて帰宅する。
近くのパン屋に入り、パンを買う。
野菜コロッケパン、クリームパン、クロワッサンをほうばりながら呑川沿いを歩いた。
雲の合間から時折差し込む陽光が、冷たい空気に反射しながら呑川に落ちていく。
コンクリートの壁に挟まれ埋もれ流れの道を固定されたこのどうしようもないどぶ川も、午後の光を浴びれば散策路になる。
無造作に点在する木々は今にも落ちそうな枯れた黄葉をまとっていた。
あっ、もう戻らなきゃ。引き返す。
食後のタバコをふかしながら、うどんややらコンビニがぽつぽつある車二台幅くらいの道路を歩く。
前方に、自転車にまたがって携帯で喋っているらしき女の子の後姿が見える。
背丈もそれほどない太目の女の子。
服装もかなり地味で野暮ったかったように思う。
高校などでクラスに一人や二人いるあまり目立たない感じの女の子。
私は車道より一段高いところにある歩道を歩き、その子は車道の端で片足を歩道に乗せて自転車と体を支えている。
近づくにつれ、その子がなにか白いものを指に挟んでいるのが目に映る。映っただけで意識で解釈していない。
しかしふと、たばこじゃないか?と気づきその不釣合いなイメージに興味を引かれ、もう一度見る。
やはりたばこだ。先から煙が揺れている。
へ~、たばこか~、と認識した時には私はもうその子のすぐ真横に来ていた。
そしてたばこから視線を外すと同時に大き目の喋り声が耳元で鳴った。
「車の中でおなっちゃえ」
?
ん??
えーっと。なんか聞き間違えたかな?
くるまのなかでおならっちゃえ…じゃ意味わかんないし、車の中で…えっっと…なにと間違った?
少々動揺して頭の中で反芻するが、耳元で一字一句はっきり聞こえたわけだし聞き間違えてはいないという確信もある。
普通にとっていいのか?もしくは新しいギャル語なのか?
ぶつぶつ考えてから歩みを止め、自然にくるっと回って引き返した。
顔を見ようと思った。
私は目が悪いため、その子の側まで戻ってからちらっと見た。
後姿から想像していたのと大差ない。肉付きのいい顔に細く目が引いてある。失礼だが全然可愛くない小太りの女の子。10代であることは間違いない。
話し声がまた聞こえる。
「あたし態度のでかい男嫌いなんだよね」
Σ(゜皿゜) ガビーン
先の展開が読めない。
といっても奇抜であっと驚くストーリーでは全くない。
ストーリーの流れを書いたら、そんだけ?と思うだろう。
ただ、思わせぶりなシーンが結構あるから騙される。次の一手に対して緊張感が続く。
第2次世界大戦前のドイツ。農村地帯の農家の娘であるアンナが主人公。二十歳前後の娘。
一見幸せそうな娘であるが、幼少の頃母親を亡くし、それ以来母親代わりとして10人以上はいる家族の世話や、家事、農家の仕事までこなしてきた。
アンナが幼少の頃のシーンが度々挿入される。現在のシーンと過去のシーンつなぎ目が分からずに初めは混乱するが慣れてしまえば、その滑らかな移行が美しい。
幼少のアンナ(5,6歳?)は雪が降り積もる外で手や足がかじかみながらも洗濯をする。
または、つぼの中をかき混ぜているアンナに兄が近づき、つぼの中のなにか食べ物を味見する。まずかったらしくほっぺをはたかれるアンナ。
つらい。
娘をこき使い、息子達にも厳しいアンナの父。嫌な人物として描かれているのかと思ったら、誰よりもアンナや家族を愛する優しい父でもあったりする。
家族全体としても、自然の中で強く温かく暮らす幸せな家族といった印象も受ける。
他にも見ていてアンナの境遇につらさを覚えることがしばしばあるけど、必ずそれを和らげる一面や展開がある。
あるイメージを提示して、後で違うイメージも与える。その付加の仕方がつつましい。
主人公のアンナ役のダーナ・ヴァブロヴァは、ふくよかで綺麗な女性。
後半にお手伝いにやってきた少女にアンナが啖呵を切るシーンがある。
「こんな白い手で白靴下なんか履いて、豚小屋で働けるの? あん!? 年寄りの足のつめ切ったり下の世話したり、そんな生白い顔で出来るの?」
と叫んで追い返してしまう。たくましい。
写真屋の女性が出てくるのだけど、この女性(エーファ・マッテス)のあまりに自然な動きとセリフには驚く。
冒頭にも出てくる義母は雪が降り積もる中自転車引いてどこに行くのだろうな。一人、不幸。
以上、感想をだらだらと。

アメリカ西部、トントからローズバーグまで駅馬車が走る。折りしもアパッチ族が反乱を起こしているため命の危険を伴う旅路。
まあ、そんな話(こんな説明じゃわかんないか)。
いよいよ駅馬車が軽快な音楽とともに走り出す。旅と危険と広大な荒野と。高揚するね。
でも駅馬車はすぐ止まり、音楽も止まる。
また走り出し、軽快な音楽が流れる。
駅馬車の乗員の会話シーンになり、音楽が止まる。
次に駅馬車の走る姿が映り、また軽快な音楽が流れる。
続く・・・
この、音楽の小刻みな断絶は面白い。
ジョンウエインはどこに出てくるのかなぁって思っていたら、銃声が音楽を一瞬でかき消す。護衛の騎兵隊が河を渡るシーンという間を入れた後、撃った本人をカメラが捉え、そいつの顔面に向かってズームしていく。か、かっけぇ。
このかっこいい登場するのがジョンウエイン。
後半インディアンがばったばったと死んでいく。ずる賢く極悪な"敵"という設定である。
人物設定も交わされる会話も展開もみんな面白いので楽しく見れる映画。

冒頭の森繁、加藤大介、そして原節子の三者のやり取りからまず面白い。
森繁のセリフ回しっていうかイントネーションっていうかとにかく凄い。
その次のシーンで秋子(原節子)と紀子(司葉子)が部屋の中に座して向かい合って喋っているのだけど、なんか違和感がある。セリフの喋り方に抑揚がないとかそういう訳でもないのに、なにか二人の会話空間に恐ろしさがある。
秋子が「そぅ。そうなのぉ」というところなど普通の相づちのようでいて裏に人間でない生き物が隠れていそうな雰囲気がする。
向かい合う二人をカメラは一人ずつ真正面ど真ん中に捉る。秋子が喋れば秋子を、紀子が喋れば紀子を映す。時にせわしなく切り替わる。
よく見る手法なのだけど、後で思うとこれが違和感の一つの原因だった気がする。
今書いたところまでで、せいぜい10分くらい。この後には中村鴈治郎や新珠三千代や小林桂樹や藤木悠などなど出てくるのだから面白さはまだまだ続く。
以下はしょって。
紀子と寺本(宝田明)が駅のホームにあるベンチに座っているシーンってなんだったんだろうな。
寺本が連発して言う「ああ、愉快だった」の不思議さもさることながら、ホームに電車がやってきた後紀子たちでなく全然関係ない人たちの乗車シーン映してもう一度ベンチを映す。
そのベンチは空で2人の影も形もない。しかもその空のベンチっていうのが二人が座っていたベンチじゃないと思われる。
電車が来て紀子達は同時に立ち上がり、次のカットで知らない人たちの乗車シーンで、その次のカットで二人が座っていたベンチじゃない空のベンチ。
このつながり方って怖いだろう。異質なものが、さも自然な顔して存在している。
紀子と寺本のシーンはスタジオ撮影で、関係ない人たちのシーンは実際のホームだったということだろうか。
しかし、さっき全然関係ない人たちの乗車シーンって書いたけど、実は乗車してるなって予想させるのみで電車の姿は全く映っていない。
空のベンチに走り出す電車の音と車内灯が当たっているだけ。
こんなの全部スタジオで撮影できるだろう。
うーん、まあいいや。
詳細は書かないが、お父ちゃん(鴈治郎)が「違わい!山田君じゃ」って言うシーンがあるのだけど、思わず爆笑してしまった。
映画見て爆笑したのっていつ以来だろう。チャウシンチーの『0061/北京より愛をこめて!?』以来じゃないだろうか。
秋子はお父ちゃんの長男の嫁で紀子はお父ちゃんの娘。この2人は仲がいい。
葬儀やらなんやらで家族親族が集まる時でもいつも二人だけが外を散歩したりと少し離れたところにいる。
秋子は夫の親族と仲が悪いわけでもない。でもこの二人はいつも皆から少し離れている。
鴈治郎を中心とした「家」に収めず、少し距離をとったところに二人を立たせ「家」に客観性を持たせているとか、理屈でいえばどうこう言えそうだけど、理屈ぬきでこの二人と「家」の間にあるたゆたう距離感に不思議な面白さがある。
ひとつひとつ書いてもきりがないからまとめて書くと、なんか全体的に不思議なんだよ。微妙に。
しゃがんでいた秋子と紀子が同時に立ち上がって同時に二歩すすんで同時に止まったりとかさ。ここは特にぞくっとしたな。
そういえば病み上がりのお父ちゃん便所でブッて屁こいてたな。
一本しかみないであんましどうこう書くのやめよっと。
あと『晩春』をビデオに録ってあるのだけどどうしようかな。小津は映画館でしか見たくない気がしてきた。
共産主義者の老大学教授にマルチェロ・マストロヤンニ。
義理の娘役にサンドリーヌ・ボネール。
ストーリーは世代間の断絶と少し恋が混じったりする話。
知識教養を最上と捉える老教授と、さみしさにより自分に欠落したものを必死に埋めようと活発に行動しては傷ついていく義理の娘。
2つの生き方が近づいては離れる。
そして、そういう二人の距離と同じだけ離れて立つ5歳の少女。
老教授と義理の娘、どちらも正しいようでどちらも間違っている。というか正誤なんてないのだけど。あとはこの少女が生きていく。
なにげなく映像は流れるけど、セリフといいシーンといい結構じわっといける。
最寄り駅の駅ビル内の本屋で見つけた。1巻から11巻までそろっている。
しかし最新刊が何巻だったかよくわからない。包装されているから中身も見れないし。
まあ11巻が新しそうだなと思って買う。
マンガの単行本1冊620円だ。高いなぁ。と思うけど、よくよく考えてみると、毎日昼飯に700円くらい使っているのだよなぁ。
買って店を出た後、なんとなく中身をぱらぱら見てみると、あれ?最新刊じゃないじゃん。
この巻持ってるよ。
返品できるかなぁ。返品無理でも取替えなら大丈夫かなってうつむいて考えながら店に戻る。
色白の女性店員に巻を間違って買ってしまったことを伝える。説明の成り行き上、巻を取替えたいという意思表示をする。
OKらしい。
10巻と11巻は持っているので9巻と取り替えてもらう。
なんか住所やら名前電話番号など書かされた。
俺が前に働いていた本屋では返品も取替えも平気で、「あ、どうぞ」ってOKしていたけど(本当はその店自体返品も取り替えもお断りっていう店だったけど独断で勝手にOKしていた僕)。
なにか店の会計やら犯罪防止などいろいろ理由があって住所とか書かせるのであろう。でもめんどいこった。
紙に住所など汚い殴り書きで書いているとき、横に立った男が「すいませんこれ間違っちゃったんだけどぉ」と言っている。
店員が「・・・返品、ってことでよろしいですか?」「うん」
えっ?返品もありなの!しまった。返品にすればよかった。
まあそんな希望はだめもとで伝えたほうがいいという話。

サーカスのブランコ乗りの少女ローラ(レベッカ・リリエベリ)。ローラはある日小熊を買ってもらう。
小熊はすくすく育ち、しかも愛しすぎたゆえか熊は人間に変身できるようになった。
ファンタジーものだ。でも人間に変身できるなんてどうでもよかったな。熊は熊のままでいいよ。
捨て子(実は違うのだが)のローラが愛情を疑いなく向けられるのは熊しかいない。
ローラは少女であり、熊は猛獣。必然的に映画全体で悲しさを帯びる。
ラストを見るとああ、このラストを違和感なくするために熊が人間に変身っていうのをまかりとおしたのかと納得するけど、なんかさみしいなぁ。
少女と熊が抱き合ってダンスをするシーンは予告編で見たときより印象としてさらっとしていた。
なんかストーリー上で劇的な展開があった後、悲しげに街中で熊とダンスして、回りに見とれる人だかりができるというシーンだと勘違いしていたから。
熊の変身した人間を演じるのはセルゲイ・ボドロフ・Jr。中村雅俊が整形に失敗したような顔をしている。
後で知ったことだがこの俳優『コーカサスの虜』のワーニャ役の人だった。しかも2002の9月に他界してしまったらしい。
ご冥福をお祈りします。
ローラ役の子はかわいいね。
にしても期待の割りに少しだけもの足りなかった。

愛の深さの映画。異性にだったり友人にだったり。
アリシアが昏睡状態になる前、アリシアとベニグノは出会っている。
ベニグノの方が一方的に彼女を愛しており、アリシアの方は彼の存在すらよく知らないのだが。
アリシアがベニグノの存在を知ってまもなく、アリシア交通事故により植物状態になる。
アリシアを4年間も介護し続けるベニグノ。体をくまなく拭いたりマッサージしたり手にクリームをつけてやったり、彼女の好きなサイレント映画の話をしてやったり。
ベニグノにとって人生で最も充実した4年間。
崩壊の契機は1本のサイレント映画。
このサイレント映画っていうのが、燃え滾る情熱が行き着く究極の形をエロティックに描いたものであった(結構笑えもするのだが)。
ベニグノのアリシアへの愛情はあまりに深い。一方通行では満足できない刻がやってくる。
体に触れているだけでは足りない。サイレント映画で見た究極の一体はベニグノにある行動を起こさせてしまう。
・・・ラストではほんのり心が温かくなる。
以前に見た『オールアバウトマイマザー』では5分に一度は泣いた。涙ちょちょぎれた。
この『トーク・トゥ・ハー』にもそういうの期待したけど泣きはしなかったな。
期待が高かっただけにいい作品だが少し喰い足りなさを感じてしまった。
ちなみにアリシアを演じた女優はむっちりして綺麗な人だった。
あと、昨日見た映画にも出ていたジェラルディン・チャップリンが出ていたな。
あと、エンドロールで流れた音楽はなんだろう?ホーミー?
ショーでは曲芸馬乗りや射撃の名手(チャップリンの娘)が腕前を披露したり、西部開拓の英雄を演じるバッファロービルがインディアンと戦い勝利するショーなどが催される。
このショーの新企画として、インディアンのスー族族長シッティングブルを役者として招く。
まあ、そんな話(書くのがめんどうになった)。
自然とともに生き、どこまでも真実のみ見つめ続けるスー族と、ショーという虚飾、アメリカという虚飾の国で生きる白人達の虚飾、が対比されている。のかな?
軽妙な映画ではあるが知識不足か脳みそ回らなかったかでそれほど印象に残らない。
ハーヴェイ・カイテルは顔変わんないなぁ。
遠州佐伯藩松平家の若殿である源之助が市井に飛び出し肩書きのない自分の実力とはいかなるものか試そうとする。
団子食って金払わない等、お決まりのギャグで笑わせてくれる。
途中に出会うおみね(中村玉緒)が、正体を隠している源之助にこんなことを言う。
「本当にあんたったら利口なのか馬鹿なのか分かんないよ」
いや、どう考えたってただのバカでしょう。
格言好きな源之助は「バカ」と言われれば、少々考え込んだ後「バカとハサミは使いようで切れる」と一人つぶやいてにかっと笑う。
にかっの涼しさはまさに雷蔵。
馬鹿な源之助も次第に世の中を知り、強く利口になっていく。
最後には二三十もの敵をばったばったと爽快に切り倒していく。
んっ?でもこの敵って源之助の家臣たちじゃないの?
自分の家臣をばったばったと切り倒す若殿って・・・
ふっ、やっぱあんたは大馬鹿だよ。
なんだかんだ言っても脚本は結構面白い。
あと、ヤッチーは日本映画史上最も可愛い女優だね。

キートンの映画見て、笑えるのにたまに悲しい気分になるのはなんなんだろうな。
キートンの顔のせいかな。
キートンが強盗にぶつかって転げるシーンで、へたりこんでいるキートンの顔を体格のでかい強盗の視線でカメラが映す。
その強盗を見上げるキートンの顔の無垢さには参った。
ところで、NHKで流すサイレント映画って大抵ピアノ音楽と澤登翠による活弁が入る。
最後の活動弁士澤登翠。と、誰だか知らない人のピアノ演奏。
うるさいから消音にして見た。
弁士って勝手に想像していたけど、義太夫のような語りじゃないんだねぇ。
ピアノの方は慣れればいいけど、でもたまにムショーにうるさく感じたりするんだよな。
昔フィルムセンターでサイレント見ていたときに外人さんが生でピアノ演奏してくれていた。
眠くなった。
でも映画館でサイレントを本当に音なしで見ると、静けさがなんだか気まずかったりする。
わざとらしくせきする人が何人もいたりして。

キートンの身体能力の高い躍動や繊細なオーバーアクションを見ていると、この世の中にある建物などの物体や人間までもが全て自分と未分化なものに感じられるし、この世の中なにもかもが面白いはずという気がしてくる。
キートンが作った映画なのだからその映画の世界はキートンのもの。
当たり前と言っちゃ当たり前のことだが。
実際映画の中の世界が全てキートンの手のひらにあるように見えるのだから、改めて映画という"嘘"を発見する。
キートンの破天荒さはそのままスケールのでかさになる。
面白い。
目当ての女優はエマ・ドゥ・コーヌというらしい。
いいね。ショートヘアで眉がきりっとして活発。
アラブ系の中年に差し掛かっている男と、これまたアラブ系で身寄りのないガキがあるきっかけでマルセイユに向かうことになる。
途中、バンで子供向けかなんかの玩具?グッズを売るロシア人行商人や、今のハリウッド女優が及びもつかない魅力を放つエマ・ドゥ・コーヌさんと出会ったりする。
まあ、ロードムービーだ。
たぶんストーリーを分析してみたところで得することはない。
でも面白い。
この監督はこれしか撮ってないみたい。

そこから時代はセルピコが警官になったところまで遡り、ストーリーが流れ出す。
展開のテンポがいいため、飽きずに最後まで見れる。
いや、むしろテンポがよすぎて登場人物は全然覚えられないわ、転属転属で舞台が頻繁に変わるのにその継ぎ目がよく分からず混乱したりする。
実話に基づいた話らしい。
もう少しじっくり展開して欲しかったな。といってもこれでも130分あるけど。
アル・パチーノが、失望感と孤独感が強まるのに並行して顔面の髭の領域が大きくなり、最後には熊みたくなっている。
髭面がかっこいいっていうのは俳優としていいよね。
アランドロン主演作。
フランスの田舎、豪雪地帯で殺人事件が発生。
発生現場に近いローズ(シモーヌ・シニョレ)一家に嫌疑が向けられる。捜査するのはラルシェ(アランドロン)。
は、はんにんはだれだ~!!
というような緊張感は特にない。ラストで犯人がわかって、びっくり、ということもない。
ただ、シモーヌ・シニョレが凄いね。あのうつろにも柔らかい目に引き付けられる。
水面下で崩壊しつつある一家。極めて紳士的に事件の捜査に入るラルシェによって、結果的に一家に薄く張られた膜が一枚一枚取り去られていく。ラルシェに対して。ローズに対して。
膜を剥がしてラルシェが見つけたかったのは犯人。一家の真実を見たかったわけではない。でも結果的にそうなった。
人と人の関わりで、大きく、じゃなく微妙に波が立つ味わい。
推理サスペンスとして犯人探しにやっきになってこの映画を見ていると失敗する。
オープニング、真っ暗の画面に除雪車が走る。音楽が流れる。低い女の歌声。ホラー映画みたいでどきどきするね。本当ホラー映画だったら最高のオープニングだな。
あと、ローズ一家の次男の嫁にモニークという女性がいる。なんてキュートなんだろう。
ブロンドで目がくりっとして小柄でかなりの美脚で浜崎あゆみの3倍かわいい。芸名だかなんだかミュウ・ミュウという名前らしい。
ミュウ・ミュウって感じだ。

ヴァイオリン奏者として切磋琢磨して成功していく、というのに主眼があるわけではないので、音楽に関しては「感情がこもってない!」とかその程度のことしか語られない。少し不満。
少年の目がいい。知的で優しい。
ラストはいいね。ただ、ヴァイオリンの音が少し小さめで、胸の中にこみ上げかける"なにか"が膨らむこともできずに所在無いまま消えてしまった。
これは自分の中で失敗したな。嘘でもいいから胸に芽生えた種はすっきり爆発させたほうがいい。後味が少し悪いもん。
映画の中でのヴァイオリンの音量の問題だったか、劇場の音量の問題だったか。

韓国のド田舎の古びた家におばあちゃんが一人で住んでいる。
そこにおばあちゃんの娘と孫がやってきて、おばあちゃんは孫を暫く預かることになる。
孫は(このガキは)おばあちゃんに対して「触るな!汚い!」とか「バーカ」と言ったりする。このガキャ!
誰もが想像するとおり、ストーリーのほうはこのガキがばあちゃんに次第に心を開いていくというもの。
耳が遠く言葉を喋れないばあさんの孫に対する愛情の器の大きさ、片親のガキが運命的に持つ孤独、あまりに離れすぎた世代と土地のギャップ、など結構良い。
ギンレイホールでは次回『ベアーズキス』を上映する。その予告編のほうが泣けたりする。
ちなみに劇中、孫がポケットサイズのゲームで遊んでいるが、プレイしているゲームソフトは「バトルシティ」と見た!