2003年11月10日月曜日

映画『小早川家の秋』

1961年 監督:小津安二郎
BS2録画ビデオ


小早川家の秋

今日小津監督作見た。小津作品初めて。初小津。
本当は『突貫小僧』や『大学は出たけれど』っていうサイレントをパテベビー短縮版とかいうので以前見ているがあまり覚えていないため、今日が初小津ということにしておこう。

なにか構えて見出したけど、全然そんな必要なかったな。たぶん誰が見ても面白い。

冒頭の森繁、加藤大介、そして原節子の三者のやり取りからまず面白い。
森繁のセリフ回しっていうかイントネーションっていうかとにかく凄い。

その次のシーンで秋子(原節子)と紀子(司葉子)が部屋の中に座して向かい合って喋っているのだけど、なんか違和感がある。セリフの喋り方に抑揚がないとかそういう訳でもないのに、なにか二人の会話空間に恐ろしさがある。
秋子が「そぅ。そうなのぉ」というところなど普通の相づちのようでいて裏に人間でない生き物が隠れていそうな雰囲気がする。
向かい合う二人をカメラは一人ずつ真正面ど真ん中に捉る。秋子が喋れば秋子を、紀子が喋れば紀子を映す。時にせわしなく切り替わる。
よく見る手法なのだけど、後で思うとこれが違和感の一つの原因だった気がする。

今書いたところまでで、せいぜい10分くらい。この後には中村鴈治郎や新珠三千代や小林桂樹や藤木悠などなど出てくるのだから面白さはまだまだ続く。
以下はしょって。

紀子と寺本(宝田明)が駅のホームにあるベンチに座っているシーンってなんだったんだろうな。
寺本が連発して言う「ああ、愉快だった」の不思議さもさることながら、ホームに電車がやってきた後紀子たちでなく全然関係ない人たちの乗車シーン映してもう一度ベンチを映す。
そのベンチは空で2人の影も形もない。しかもその空のベンチっていうのが二人が座っていたベンチじゃないと思われる。
電車が来て紀子達は同時に立ち上がり、次のカットで知らない人たちの乗車シーンで、その次のカットで二人が座っていたベンチじゃない空のベンチ。
このつながり方って怖いだろう。異質なものが、さも自然な顔して存在している。
紀子と寺本のシーンはスタジオ撮影で、関係ない人たちのシーンは実際のホームだったということだろうか。
しかし、さっき全然関係ない人たちの乗車シーンって書いたけど、実は乗車してるなって予想させるのみで電車の姿は全く映っていない。
空のベンチに走り出す電車の音と車内灯が当たっているだけ。
こんなの全部スタジオで撮影できるだろう。
うーん、まあいいや。

詳細は書かないが、お父ちゃん(鴈治郎)が「違わい!山田君じゃ」って言うシーンがあるのだけど、思わず爆笑してしまった。
映画見て爆笑したのっていつ以来だろう。チャウシンチーの『0061/北京より愛をこめて!?』以来じゃないだろうか。

秋子はお父ちゃんの長男の嫁で紀子はお父ちゃんの娘。この2人は仲がいい。
葬儀やらなんやらで家族親族が集まる時でもいつも二人だけが外を散歩したりと少し離れたところにいる。
秋子は夫の親族と仲が悪いわけでもない。でもこの二人はいつも皆から少し離れている。
鴈治郎を中心とした「家」に収めず、少し距離をとったところに二人を立たせ「家」に客観性を持たせているとか、理屈でいえばどうこう言えそうだけど、理屈ぬきでこの二人と「家」の間にあるたゆたう距離感に不思議な面白さがある。

ひとつひとつ書いてもきりがないからまとめて書くと、なんか全体的に不思議なんだよ。微妙に。
しゃがんでいた秋子と紀子が同時に立ち上がって同時に二歩すすんで同時に止まったりとかさ。ここは特にぞくっとしたな。

そういえば病み上がりのお父ちゃん便所でブッて屁こいてたな。

一本しかみないであんましどうこう書くのやめよっと。
あと『晩春』をビデオに録ってあるのだけどどうしようかな。小津は映画館でしか見たくない気がしてきた。

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