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2011年3月3日木曜日

映画『霧の中の風景』

1988年 監督:テオ・アンゲロプロス
BS2 録画


テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX III (霧の中の風景/蜂の旅人/アレクサンダー大王)

ああ、やっぱり暗い。
11歳の少女ヴーラと5歳の弟アレクサンドロスは、ゲルマニーア(ドイツ)にいるというまだ見ぬ父親を探しにドイツ行きの国際急行に乗り込む。
無賃乗車なのですぐ降ろされてしまうが。
叔父から、父親がドイツにいるという話は母親の嘘であり父親なんかいない、という事実を信じられないまま聞きながらも、二人は家に帰らずにドイツに向って旅を続ける。
夜中に知らない街にぽつんと放り出されても動じることない二人を見ていると、金も無いのに飯はどうするんだ?どこに泊まるんだ?という疑問が当然生まれてくる。
誰か優しい人が救いの手を差し伸べてくれるのだろうか?
しかし二人の前に現れるのは、トラクターに引きずられてそのまま放り出された瀕死の馬や、背後で無関係に騒がしく通り過ぎていく結婚式の集団だけだ。
この異様なショットの後にすぐ翌日(山中の寂しい道路を二人が歩いているシーン)に切り替わるので、ああ、男でも女でもない聖的な存在の子供達が、人間の基本的な営みを超越してギリシャを旅しながら彼らを中心に詩的な映像が綴られていくのね、と勘違いしてしまった。
だからヴーラがあんな目に合うなんて想像もしなかったしショックも大きい。
その衝撃はいつまでもちくちく痛みとして残り、ラストも悲しい解釈しかできない。
超越した存在なら暗いもくそもないのだが、詩的でありながらあまりに現実的でもあるため、悲しくて美しい。

映画を見ていてカメラを意識することってあまり無いのだけど、これは結構気になる。
走り去る列車を固定カメラで映すシーンでも、それが列車が小さくなるまで長々と映されると、その列車に乗った姉弟がもう手の届かないどこか遠くに行ってしまうような寂しさがこみ上げてくる。
しかし次のシーンではカメラは車内の二人を映し出すのだ。
カメラに国境や距離は関係ない。
そんなカメラが映し出す世界は、瀕死の馬とか雪に大人が呆けるシーンとか海辺の旅芸人の超長まわし360度パンとかバーに紛れ込んだ鶏の静謐とか宙を舞う石造の手首とか、異様なショットがちょいちょい挟まって現実離れしているのだけど、ストーリーも映像もこんなに切なくて悲しい映画はめずらしい。
アンゲロプロスの映画の中でもこの映画は、詩的な叙情性とストーリー性とのバランスがよくて一番好きかもしれない。

ヴーラ11歳っていうのはgoo映画のページから取ったけど、ヴーラ役の少女の実年齢はもう少し幼い気がする。
妙に大人びた顔をしていて不思議な感じのする子だ。

ラストの解釈は一般的にはどうなんだろうとネットで調べてみたけど、ラストということでネタばれになるのかあまり書いてないなぁ。
それよりも旅芸人の青年がホモだったという記述に驚いた。
確かにヴーラが青年の下を離れた理由がよく分からなかったのだけど、ホモならばなんとなく辻褄が合う。
でもやっぱりいやだな。青年との別れがつらくて何も言わずに旅立ったって方がいいっしょ。

2011年2月20日日曜日

映画『シテール島への船出』

1983年 監督:テオ・アンゲロプロス
BS2 録画


テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出)

寝ちまった。
映画監督らしき男が撮影現場だかオーディション会場だかを歩きまわっている。
オーディションでは大勢の初老の男が一人ずつ「エゴイメ(私だよ)」と言っている。
そんな時バーに入ってきたラベンダー売りの老人を見て、男は引き込まれるように老人の後を付いていく。
港にやってきた老人が幻のように消えて男が見失った時、男は「アレクサンドロス」と女に呼びかけられる。
男の名はアレクサンドロス。
ラベンダー売りの老人を追いかけてたまたま港に来たのだと思ったら、ロシアに亡命して32年ぶりにギリシャに帰国する父を妹とともに迎えに来ているらしい。
ゆったり到着した船から降り立った老人は、なんと先ほどのラベンダー売りの老人だ。
老人は二人を見て言う。
「エゴイメ(私だよ)」。

ラベンダー売りの老人は、父と32年ぶりに再会するまでの幻想的なつなぎだったのだろうか。
まあ、そこまではいいのだけど、再会した3人が喋るとき、誰が喋っているのか全く分からなかったのでそこでパニックになって脳みその回転が停止した。
アレクサンドロスを演じた俳優の声も渋いけど、妹役の女優の声はもっと渋い。
女性の声に思えないくらい渋くて、二人の男と一人の女性でありながら三人のうち誰が喋っているんだか分からず、「私がヴーラ」と父が喋っているのかと思った。
一つのセリフで百を理解しなきゃいけないというのにそもそも誰のセリフか分からないとお手上げです。
ゆっくり到着する船にうとうとしかけていたので、諦めが入った途端寝てしまった。

でも見るの再開してからは登場人物もある程度把握したし、序盤のかったるさもなくなって面白く見ることができる。

32年ぶりに父が帰って来た。
頑固で昔かたぎな父が巻き起こす数々の騒動にうんざりしながらも、現代の冷たさに膿んでいる子供達は次第に人の温もりを取り戻していく。
・・・というような近年のハリウッド的な展開はもちろんしない。
物語の中心は父と、その父の帰りを32年待ち続けた母になる。
父スピロは亡命したことにより無国籍者となり、故国では存在しない者になっている。
故郷の村はもう人が住んでおらず、村人達はスキー場建設を目論む会社に土地を売ることで結託している。
スピロは一人土地を売ることに反対し、村人全員を敵に回す。
一方、母カテリーナの方はスピロの代わりに投獄されながらも32年ひたすらスピロの帰りを待ち続けていた。
32年ぶりの再会は見詰め合った後にかすれた声で搾り出すように言う「ごはん食べた?」。
しかしスピロは亡命先で寂しさに耐えかねて家庭を持っていた。
カテリーナはその事実に耐えかねて一時はスピロと距離を置くが、やはり愛する夫、故国で居場所の無い孤独なスピロにどこまでも付いていくのだった。

暗いでしょ。
スピロとカテリーナ夫妻の温もりはあるものの、背景として過去のギリシャの内戦とかがとてつもなく暗い影を落としている。
アレクサンドロスの物憂げなステップも、スピロの感情を体全体に行き渡らせたステップも、測量かなんかの旗を引っこ抜いて豪快に放り投げる所作も、お茶目なんだけど孤独と悲しみに呑まれているし。
誰が悪くて誰が正しいとかではなくて、ただ時代や国境に翻弄されている深い悲しみが横たわっている。
そんなストーリーで何が面白いんだって話だけど、このストーリーでつづられる映像が凄い。
特にラストはうならさせられる。

ネットで調べていたら、ラベンダー売りの老人を見失ってから劇中劇になると書いてあるのがあった。
確かにアレクサンドロスは「エゴイメ(私だよ)」が一番しっくりくる役者を探していたわけだし、それは父役を探していたということに他ならず、ラベンダー売りの老人を見出したことで彼を起用した映画が撮影され、その映画を映画の中で見ている、と考えた方がラベンダー売りの老人の存在のつじつまが合う。
もっと驚きなのは冒頭にバーでちょろっと現れたアレクサンドロスの愛人の女優が妹役も二役でやっていたらしい。
そんな馬鹿なと思いつつも、もしそうならラベンダー売りとこの愛人の二人の存在により、明確に劇中劇という点が示唆されていたことになる。
ほとんどクローズアップがないから役者の顔を全然記憶していなくて、全く気付かなかった。

でも急いで見直してみたけど、愛人と妹役が同一人物に見えないんだよなぁ。
愛人はあんなに渋い声してなかったし。
顔見ても全然分からん。
いや、妹がガソリンスタンドで堂々と煙草を吸ってさらにポイ捨てしているシーンは声が愛人っぽいぞ。
ちょこちょこ入れ替わっているのかなぁ。
いや、でも顔は妹っぽいな。
この妹役の人は声を張らずに喋るときだけ渋い声になるらしい。
港で「アレクサンドロス」と呼びかけた後の次のセリフのあまりの声の差異を聞き直すと、もう声では判別付かないと諦める。かといって顔はもっと分からない。
何度か再生して見てみたけど、妹役は全部同一人物な気がするのだが、結局のところバーにいた女優と同一人物かはやっぱり分からなかった。
goo映画のページの解説等々で同一人物と言っているので同一人物なのだろう。

『エレニの旅』のような何の前触れも無い時間の飛躍が無いから見やすいと思っていたら、こんな劇中劇(しかもやっぱり境目は極めて曖昧な)の超分かりにくい複雑な重層構造が潜んでいたとは。

2011年2月19日土曜日

映画『エレニの旅』

2004年 監督:テオ・アンゲロプロス
BS2 録画


エレニの旅 [DVD]

1月にBS2で放映していて録画した4本の内の一つ。
本当は年代順に見ていこうとしていたのに間違えて一番新しいやつから見てしまった。
ちなみにアンゲロプロスは『永遠と一日』しか見たことが無いので初心者です。

170分あるから気合入れて見ないとなぁと思っていたけどそんなに構える必要もなかった。
長回しを多用する監督は何人もいるけど、アンゲロプロスの長回しはそこに雄大な時の流れを感じさせる。
長回しでゆったり動くカメラが切り取る時間はその時その瞬間の固有のものの筈なのに、永遠に続いていくように錯覚してしまう。
広大な川辺の荒野にある村は時代が変われば水没してしまうし、永遠に続くものなんて無いのに。
シンプル(殺風景)で時に幻想的な空間にある静謐さの中に、人々の生活や感情がひっそりと染み込んでいるからだろうか。

ストーリー自体も時間軸の飛躍に無頓着で、何年も時が経過しているのにその前後のシーンには一切それを示唆するものが無く、次の日みたいな感じでしれっと数年経過していたりする。
1919年頃という曖昧な年に始まり、その時4歳くらいのエレニ(アレクサンドラ・アイディニ)が次のシーンでは14歳くらいになっている。
さらには生んですぐ離れ離れになった双子に再会するとき、赤子だと思っていたら双子はいつの間にか8歳くらいに成長している。
エレニを演じている女優が代わっているなとは思ったけどさぁ。全然分からん。
でもまあ、この程度ならまだ付いて行ける。
詩的なセリフもほとんど無いし、ちゃんとストーリーもあるので。
最後の方の怒涛の展開で息子達がいつの間にか兵士になっているのは一番混乱したけど。

アンゲロプロスは音の使い方が上手くて、非常に好み。
意図して拾っているのだと思うが、馬車の車輪の音とか浅瀬を歩く音とかシーツがはためく音とか。
とりわけ、この映画で重要な河とか海にも関係するけど、水に関した音がいいな。
テーマ音楽は『永遠と一日』に似ているので同じ音楽監督かなと思っていたら、同じどころか『シテール島への船出』以降音楽はずっとエレニ・カラインドロウが担当しているらしい。

それにしても村全体が水没しているシーンはどうやったんだろう。
曇天でよく見えないが地平線の先までかなりの広範囲で水没しているように見える。
ああ、公式ページによると冬には水が引く湖に村を建設したらしい。なるほど。

クライマックスの幻聴、幻視は、それまでの静かな流れを一切損なわないままクライマックスらしい圧巻のシーンになっている。

印象的なシーンが多く非常に面白かったのだが、一点微妙だと思ったのは、血の付いた手で真っ白いシーツに触るのは1枚目だけで十分で、2枚目、3枚目も触るのはやりすぎだろう。
あ、もう一点、難点というか個人的なことだけど、ギリシャの近現代史を全く知らないのでストーリーの背景を知識で補完できなかった。
補完しなくてもなんとなく起きてる事は分かるのであまり問題じゃないけど、ギリシャ悲劇の国のこの救いようの無い悲劇をストーリー上より理解するためには必須の知識かもしれない。

ヒロイン役のアレクサンドラ・アイディニはなかなか綺麗な女優さんだった。
横顔見るとはっきり分かるが、顎が鼻のように見事に突き出していてキュート。

元々一本の長編で20世紀全体を描く構想が、上映時間があまりに膨大になりすぎるため3本に分けたらしい。
『エレニの旅』はその三部作の一作目に当たる。
二作目以降が現在どこまで作られているのかは知らない。